寛仁 (かんにん、旧字体寛󠄁仁)は、日本元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1021年までの期間を指す。この時代の在位した天皇は、後一条天皇(第68代)。

改元

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藤原道長の執着

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「寛仁」は藤原道長が執着した元号として知られる。そもそも、「寛仁」は長保6年・寛弘元年(1004年)の改元の際に、大江匡衡が勘申したが、左大弁藤原忠輔の意見により「仁」が一条天皇の(懐)にあるため避けるべきとされていた元号だった[1][2]

次の寛弘9年・長和元年(1012年)の改元にて、道長は「『寛仁』を勘申せよ」と二人の文章博士大江通直菅原宣義に度々言ったものの、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ。しかしながら、「寛仁」は道長から相談された際、藤原実資も『漢書』から「寛仁愛人、意翻如也。」の出典を即答しており、「出典が見つけられない」は苦しい言い訳といえる[3][4]

そしてこの寛仁元年の際にも、道長は「寛仁」に執着したが、通直と宣義は「寛仁」を勘申しなかった。2月21日、右大臣藤原顕光から二人の勘文を見せられた道長は「不快である。変えさせるべきだ」と命じたが[5]、4月23日の改元定でも、二人が「寛仁」を勘申することはなかった[4]。一方で、藤原広業は「寛仁」を勘申し、左大臣・藤原顕光も一条天皇の諱に「仁」が有るといえども、一文字だけなら避けるべきものではないと主張し、新元号は寛仁に決まった[6][7]。なお、信義は直前の4月22日に死亡したため、彼の候補は忌むべきものとして候補から外された[8][9]

通直らが、かたくなに「寛仁」を勘申しなかった理由について、今浜(1987)は、人が玄宗の諱(基)を避けて「」を「永」といった故事にならったのではないかとしている[10]

出典

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会稽記』の「寛仁祐云々」より[11]

勘申者 候補
文章博士菅原宣義 永貞・淳徳・建徳
式部大輔藤原広業 寛仁・天受・地寧
文章博士大江通直 乾道・崇徳・淳徳・寛徳

寛仁期に起きた主な出来事

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西暦との対照表

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※は小の月を示す。

寛仁元年(丁巳 一月※ 二月 三月※ 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1017/1/31 3/1 3/31 4/29 5/28 6/27 7/26 8/24 9/23 10/23 11/21 12/21
寛仁二年(戊午 一月 二月※ 三月 四月※ 閏四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1018/1/20 2/19 3/20 4/19 5/18 6/16 7/16 8/14 9/12 10/12 11/11 12/10 1019/1/9
寛仁三年(己未 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1019/2/8 3/10 4/8 5/8 6/6 7/5 8/4 9/2 10/1 10/31 11/29 12/29
寛仁四年(庚申 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月※ 十月 十一月※ 十二月 閏十二月
ユリウス暦 1020/1/28 2/27 3/27 4/26 5/25 6/24 7/23 8/22 9/20 10/19 11/18 12/17 1021/1/16
寛仁五年(辛酉 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1021/2/15 3/16 4/15 5/15 6/13 7/13 8/11 9/10 10/9 11/8 12/7 1022/1/5

脚注

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  1. ^ 『御堂関白記』寛弘元年7月20日、『権記』同日、『小右記』長和元年12月25日
  2. ^ 今浜(1987), pp. 89
  3. ^ 『小右記』長和元年12月25日
  4. ^ a b 今浜(1987), pp.89-90
  5. ^ 『御堂関白記』寛仁元年2月21日
  6. ^ 今浜(1987), pp.92-93
  7. ^ 『権記』寛仁元年4月23日、『左経記』同日
  8. ^ 『権記』寛仁元年4月23日、『左経記』寛仁元年4月23, 24日
  9. ^ 今浜(1987), p. 88
  10. ^ 今浜(1987), p.94
  11. ^ a b 『権記』寛仁元年4月23日
  12. ^ 『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』、2020年10月発行、繁田信一、文藝春秋、P38

参考文献

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関連項目

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