大矢田宿禰
神功皇后の三韓征伐に従って新羅に渡った豪族
大矢田宿禰(おおやたのすくね、生没年不詳)は、古墳時代の豪族。
歌川国芳『日本百将伝』より「大矢田宿祢」 | |
時代 | 古墳時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 大矢田宿禰 |
主君 | 神功皇后 |
氏族 | 和珥臣同族、真野臣祖 |
父母 | 父:建振熊命[1] |
兄弟 | 米餅搗大臣命[1] |
妻 | 新羅王猶榻の女[1] |
子 | 佐久命[1]、武義命[1] |
概要
編集孝昭天皇の4世孫の彦国葺命の孫であり、建振熊命の子であるとされる。
『新撰姓氏録』によると、神功皇后の三韓征伐に従って新羅を討ったとされる。その後は新羅に留まり、鎮守将軍となって、新羅王猶榻の女を娶り、佐久命と武義命という兄弟をもうけた。
佐久命の9世孫の和珥部臣鳥や務大肆・忍勝は来日し、近江国志賀郡真野村に居住したため、天智天皇の庚寅年(670年)に真野臣姓を名乗ったという[2]。
なお、浅間大社社家の富士氏に伝来した系図によれば、前述の和珥部臣鳥は真野臣を名乗らず、その曾孫の外正六位下富士郡大領・和邇部富麿が富士氏の祖となったという[1]。