吉田謙吉
吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 1982年5月1日[1])は、日本の舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家である。
よしだ けんきち 吉田 謙吉 | |
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生年月日 | 1897年2月10日 |
没年月日 | 1982年5月1日(85歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋) |
職業 | 舞台装置家、美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家 |
ジャンル | 新劇、映画 |
活動期間 | 1910年代 - 1982年 |
主な作品 | |
舞台 『海戦』[1] 映画 『新しき土』 書籍 『モデルノロヂオ』[1]『舞台装置者の手帖』[2] |
人物・来歴
編集1897年(明治30年)2月10日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる[1][2]。
17歳のとき、二科会に『演劇人』を出品、初入選を果たす[2]。旧制・東京美術学校図案科(現在の東京藝術大学美術学部デザイン科)に入学[1]、同校在学中の1920年(大正9年)、帰山教正が映画芸術協会で製作・監督したサイレント映画『幻影の女』、『白菊物語』の字幕タイポグラフィを制作する[3]。1922年(大正11年)、同校を卒業する[1][4]。同年、大正期新興美術運動を担った古賀春江、神原泰、中川紀元、岡本唐貴、浅野孟府らのグループ「アクション」の設立に参加する。
1923年(大正12年)の関東大震災後、演劇復興のため、1924年(大正13年)に土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場に宣伝・美術部員として参加[1][2]、同年6月の第1回公演『海戦』の舞台装置・衣裳を手がけ、表現主義的な舞台装置を発表する[1][2]。土方与志演出のロマン・ロラン作『狼』の舞台等で「丸太式組立て舞台」を発表、新進装置家として認められるところとなる[2]。当時の弟子に図案科の後輩の河野鷹思がいる。
また関東大震災の頃から街中の看板等を写生する活動を始め、1924年、雑誌『建築新潮』に「バラク東京の看板美」を寄稿[5]。これらの活動が後に「考現学」に発展し、1930年(昭和5年)には東京美術学校の先輩・今和次郎とともに共著『モデルノロヂオ』を上梓する[1]。
1925年(大正14年)には、小山内が上梓した書籍『三つの願ひ 童話劇』の装丁を手がける[6]。同年、日活京都撮影所第二部が製作した溝口健二監督の『無銭不戦』に「舞台衣裳考案」として参加している[3]。1927年(昭和2年)には、小山内がミナトーキーで監督した初期トーキー作品『黎明』の美術装置を設計した[3]。
1930年、単著『舞台装置者の手帖』を上梓。
1935年(昭和10年)からは、京都のJ.O.スタヂオ(のちの東宝映画京都撮影所)で現代劇の舞台装置・美術デザインを手がけ、1937年(昭和12年)にはドイツと合作したアーノルド・ファンク・伊丹万作共同監督による映画『新しき土』の装置を手がけた[3]。
フィルモグラフィ
編集特筆のないものはすべて「美術」とクレジット[3]。
- 『幻影の女』 : 監督帰山教正、映画芸術協会 / 国際活映、1920年 - 字幕
- 『白菊物語』 : 監督帰山教正、映画芸術協会 / 国際活映、1920年 - 字幕
- 『無銭不戦』 : 監督溝口健二、舞台装置亀原嘉明、字幕小栗美二、日活京都撮影所第二部、1925年 - 舞台衣裳考案
- 『黎明』 : 監督小山内薫、ミナトーキー、1927年 - 装置
- 『百万人の合唱』 : 監督富岡敦雄、J.O.スタヂオ・ビクターレコード、1935年
- 『小唄磯鳥追お市』 : 監督円谷英二、J.O.スタヂオ、1936年
- 『勝太郎小守唄』 : 監督永富映次郎、J.O.スタヂオ、1936年
- 『新しき土』 : 監督アーノルド・ファンク・伊丹万作、J.O.スタヂオ、1937年 - 装置
- 『奥村五百子』 : 監督豊田四郎、東京発声映画製作所・新日本映画研究所、1940年 - 美術・美術考証
- 『大地に祈る』 : 監督村田武雄、東京発声映画製作所、1941年 - 園真と共同
- 『海軍』 : 監督田坂具隆、美術工作浅野孟府、装置六郷俊、松竹太秦撮影所、1943年 - 美術考証、柴田篤二と共同
著書
編集共著
編集脚注
編集外部リンク
編集- Kenkichi Yoshida - IMDb
- 吉田謙吉 - 日本映画データベース
- 吉田謙吉 - KINENOTE
- 吉田謙吉 - allcinema