加藤茶

日本のコメディアン、ミュージシャン (1943-)

加藤 茶(かとう ちゃ、1943年昭和18年〉3月1日 -)は、日本コメディアンミュージシャン司会者ドラマー俳優

加藤かとう ちゃ
本名 加藤かとう 英文ひでゆき[1]
ニックネーム
  • カトちゃん(加トちゃん)
  • 加藤ちゃん
  • ヒデ坊
  • チャー坊
生年月日 (1943-03-01) 1943年3月1日(81歳)
国籍 日本
出身地 日本の旗 日本東京都世田谷区福島県福島市育ち)
血液型 A型
身長 163 cm
言語 日本語
方言 共通語福島弁
最終学歴 電気学園福島工業高等学校(現:松韻学園福島高等学校)中退
師匠 桜井輝夫
出身 クレージーウエスト
グループ名 ザ・ドリフターズ
芸風 コント
事務所
活動時期 1960年 -
過去の代表番組
他の活動
配偶者
親族
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加藤茶
出生名 加藤かとう 英文ひでゆき
生誕 (1943-03-01) 1943年3月1日(81歳)
出身地 日本の旗 日本・東京都世田谷区
担当楽器
活動期間 1960年 -
共同作業者

ザ・ドリフターズのメンバーとしてテレビ・映画に多数出演。1960年代後半から70年代前半にかけて子供達の間で人気者となる。ドリフの活動縮小後は、加トケンやこぶ茶バンドでも活躍した。

本名︰加藤 英文(かとう ひでゆき)[1][2]。身長163cm

愛称は「カトちゃん(加トちゃん)」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。

来歴

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生い立ち

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1943年、東京府[注 1]東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)生まれ[3]。5歳の夏(1948年)の1か月間だけ母親・寿磨子(1916年〜1980年)の実家・愛媛県新居浜市に住む。12歳の時、ギタリストの父親・平八郎(1915年〜1955年)がを患ったため、母親、妹とともに父親の郷里・福島県福島市へ転居し福島で育った。

少年時代には平泳ぎが得意で、中学生のときの全校水泳大会の自由形では他の選手が全員クロールのなか、加藤だけが平泳ぎだったのにもかかわらず1着になったというエピソードがある[4]。その後、無線に興味があったことから電気学園福島工業高等学校に入学。

ドリフターズ加入まで

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1960年の正月に叔母に会いに上京した際、滞在中に高校中退を決断し、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズバンドボーイに就く。しかし、トロンボーンは高額で容易に入手できないことが分かると、ドラマーに捨てておいてと頼まれたドラムスティックを削って再生し、ドラムのチコ菊池からドラムを1日8時間、1週間教えてもらう。その半年後に横浜にいる菊池の兄のバンドのドラマーとして加入[5]。 スターダスターズを辞めたのはある日手当ての100円をマネージャーに催促したところマネージャーに100円を投げつけられ、この態度に怒った加藤はそのマネージャーとの喧嘩に発展し、クビになったからである。

その後、1961年にドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(後の仲本工事)と出会う[6]

1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のメンバーに加入した[注 2]

ドリフターズ加入後

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1964年には、ドリフ初レギュラー番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』での「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者になる。放送作家の田村隆によれば、『ホイホイ』の収録で90秒の音楽ギャグのオチがよくないとみんなでいろいろ考えていたところに、ディレクターの白井荘也が「小野チン(小野ヤスシのニックネームであった)が、ヒゲ付けて目玉を寄せてぶっ倒れるオチにしよう」と提案してきたが、小野がこれに拒否的な態度をみせたことで(当時ディレクターは反論など許されないような絶対的な存在だった)、周囲の穏やかな空気が止まったのを察知した加藤が「それ僕がやります」と自らその役を買ってでて演じたことから生まれたギャグだった[7]。そして、付けの糊が剥がれやすかったために、たびたび2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと加藤本人が語っている。

1964年、ドリフが分裂し(詳細は当該項目を参照)、小野ヤスシらはドリフを脱退して「ドンキーカルテット」を結成するが、加藤はいかりやとともにドリフに残留した。新生ドリフ活動開始直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶になった。

全員集合で大ヒット

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1969年より『8時だョ!全員集合』にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在になる。

 
「ちょっとだけヨ」の例

社会や人間関係の縮図をデフォルメした初期のコントや映画においてはお笑い(いつも損をする役、イジメられ役、道化)の中心で、ドリフターズ・メンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に『全員集合』で披露した、「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけヨ」で大ブレイク。同時期に「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!ぐるりと回ってウンコチンチン」も大人気となった。

このころ加藤は、付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(後のすわ親治)を抱えていた。本人曰く、1974年3月の荒井注脱退の際[注 3]、いかりやは新メンバーとして豊岡豊の加入を考えており、芸能雑誌ではすわしんじも候補に挙がっていたが、加藤が「(長年ドリフに付き、コントの作り方もよく知り、また芸能活動経験もすでにあった)志村を加入させた方がいい」と強く主張し、これにいかりやが折れてまだ当時無名の存在だった志村が新メンバーに決まった[8][9]

志村が一躍人気者となった後は、一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。特にドリフ大爆笑では志村と息の合ったコントを披露していた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていき、加藤と志村は加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。その反面、往年のギャグを披露することはあまりなくなった。

新生ドリフでは、『全員集合』終了までソロ活動を行わせなかったといかりやは語っているが、加藤はクレージーキャッツ植木等と映画で共演していた[注 4]

なお、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、かつて加藤はドリフを辞めようとしたことがあるとのこと。旧知の仲である小野ヤスシは、ドリフを脱退してドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘ったが、いかりやと前リーダーでオーナーの桜井輝夫らの説得で残留した。このころはプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接説得はしていない。また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたに過ぎなかった)。また、ドンキーカルテット側からも「すでにカルテット(四人組)名義で仕事を取り付けてしまったためにグループ名を再び変更する必要がある」「辛うじて世間に顔が売れている加藤が残留すればドリフは存続する」との事情から加藤に対し「ドリフに残った方がいい」と進言されたとしている。その一方で、小野やジャイアント吉田らが正式にドリフを脱退していないにもかかわらず、まだ活動を始めていない「ドンキーカルテット」としての仕事を取り付けたことに違和感を感じたことも、ドリフへの残留を決めた動機の一つであるとされている。

このころ、クレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残している。本人によると「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている[10]。また競艇のファンでもあり[11]、ボートレース振興会のキャンペーンの冊子にも登場したことがある。また競艇の大レースのプレゼンターを行うこともある。

『全員集合』終了後

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『加トケン』終了後は単独でバラエティ番組に出演するかたわら、俳優としての活動も行い、主演ドラマ『パパと呼ばせて!』では映画『アパートの鍵貸します』でのジャック・レモンを彷彿させる独身の中年男を好演し、NHK総合テレビで放送の『武蔵坊弁慶』では、それまでのイメージを覆す非常にシリアスな役を演じた。また「加トちゃんBAND」「こぶ茶バンド」を率い、お笑いだけでなく、本来の持ち芸であるミュージシャンとしての活動も活発化させた。『はぐれ刑事純情派』では、鑑識官を演じた。

1987年11月に18歳年下の女性と結婚。その披露宴の模様は11月21日に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内で録画中継され、芸能人の結婚披露宴中継では郷ひろみ森進一渡辺徹に次ぐ歴代4位となる36.3%の高視聴率を記録した[12]。その妻とは2003年3月に熟年離婚をしたが、「病気療養中のいかりやに心配をかけないように」との心遣いから、離婚のことはいかりやの死後まで公表しなかったという。前妻との間には3人の子供がいる。

2000年代

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2004年、いかりやが死去したことに伴い、ドリフ最古参メンバーとなった。いかりやの葬儀の際には最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ[注 5]。このなかで、加藤は「これから俺たち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。(中略)あ、でもそっちからいきなり『全員集合』って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と語りかけた。

2006年9月、長女の文代がデビュー[13]

2006年10月30日、微熱と体のだるさが1か月以上続く体調不良により緊急入院。同年12月のこぶ茶バンド公演も出演中止が決まった。病名は"Stanford A型大動脈解離"だと本人が2006年12月26日の会見で発表、生還を果たしリハビリ中であることを語った。実際の会見では「スタンダードA型大動脈解離」と言い間違えている[注 6]。この際に彼を看病したのは、熟年離婚をした元妻であった。この手術の際の検査により、長年AB型だと思っていた血液型が実際にはA型であると判明した。仕事復帰は困難ともいわれたが、わずか4か月で『鬼嫁日記 いい湯だな』に出演するかたちで復帰した。2008年には『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーに内定していたが、「Stanford A型大動脈解離」の影響により辞退することとなった。

2010年代

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2011年3月1日、フジテレビ『カスペ!』枠で加藤の芸能生活50年を記念しての特別番組『ドリフ大爆笑!! 加藤茶芸能生活50周年』が放送された。

2011年、長男と同い年である23歳の女性と、68歳にして再婚したことが報じられた。入籍は6月23日で、45歳の年齢差(『スポーツ報知』2011年8月1日)。当時、妻の父親は37歳、母親は44歳だったという(『女性セブン』2011年8月18日号)。入籍当初は新妻がマスコミの前に登場することはなかったが、2012年3月1日に、埼玉県越谷市の結婚式場「ベルヴィ ギャザホール ザ・シーン」で行われた結婚式披露宴で、初めて姿を見せた[14]。以来、夫婦でテレビ出演することが増え、2012年12月には加藤綾菜の名で、自身がプロデュースするアクセサリー類の通販サイト『P.E(ピーイー)』を立ち上げている[15]

結婚当初妻は“財産目当て”などの冷ややかな野次を浴び続け、週刊誌などのバッシングを受けていたが、2019年10月10日放送分の『直撃!シンソウ坂上SP』では、パーキンソン症候群と戦う加藤のリハビリを支えるなどの献身ぶりが伝えられた[16]。また、綾菜の父親は多数の事業を手掛ける実業家であり、実際は加藤茶の”逆玉”であったと後に報じられている[17]

2020年代

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2020年4月1日、前月29日に志村が2019新型コロナウイルス感染に伴う肺炎で急逝したことをうけ、残されたドリフのメンバーとともにフジテレビの追悼特番に出演し、番組内で弔辞を述べることが報じられた[18]。内容は、先に逝去したいかりやへの弔辞を彷彿とさせるものであった。加藤は弔辞の中で、「天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて思ってなかっただろうなぁ。ビックリしたと思うよ。長さんの次は高木ブーだと思っていたもんな。」と早すぎる死に触れ、「5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。約束だぞ」と語りかけ、「ゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ」と締めくくった[19]

加藤茶太郎

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1969年ごろより舞台で禿げヅラに丸メガネにちょびヒゲ、ステテコに着物を着た酔っ払いに扮することが多くなり、これが後に加藤茶の代表キャラ「加藤茶太郎」となる。そもそもこの禿げヅラ、丸眼鏡、ちょびヒゲはクレイジーキャッツの植木等が演じたキャラクターが元となっており、実際に舞台上で植木等と同じ扮装をして共演したこともあった。なおこの禿げヅラは特製で、舞台でいかりやや志村に強めに叩かれてもヘルメットの役割も果たしていたことを加藤は語っている。ちょびヒゲは当初は付け糊で装着していたことで「加トちゃんぺ」のギャグが誕生したものの、途中からはメイクで描くようになった。1990年代からは加藤のキャラはほぼこのキャラクターで定着しており、『志村けんのバカ殿様』やテレビのCMに出演する際もこのキャラクターで登場する場合が多い。禿げヅラの真ん中に一本毛が追加されている。のちにタレントショップ(かつて原宿竹下通りに自身のショップを持っていたこともあった)や自身のホームページなどで売られるキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。

持ちギャグ

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  • 「いかりやに、おっこられた」
  • 「いかりやの怒りは爆発だ!志村を惜しむら!仲本の中をもとう!荒井は荒い!」
  • 「痛いの痛いの飛んでけー」
  • 「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!ぐるりと回ってウンコチンチン!」
  • 「今加ト思いました。シ加トするなー」
  • 「えぇど、えぇど、おい!」
  • 「おーおー珍し珍し」
  • 「俺たち○○するかなあ?(または、これ合ってますかね?間違ってますかね?)」「分かりません。」「ピッカピッカのー1年生、ビシッ!」(志村けんとのペア)
    • 当時放送されていた学習雑誌『小学一年生』(小学館)のTVCMが元ネタ(実際に子役が上記のようなやり取りを演じていた年があった)。
  • 「母ちゃん(もしくは、母さん)、一本付けろや」(全員集合の母ちゃんコント内にて、いかりや扮する母親に向かっての発言)
  • 「加トちゃんでございますよー」
    • このギャグから芸名がハナ肇によって「加藤茶」と付けられた。
  • 「加トちゃんペッ!」
    • 旧ドリフ時代から使用されている、唯一のギャグである。
  • 「来た、来た、来た、来た、来た、日刊アルバイトニュース!」「来た、来た、来た、来た、来た、北の湖ー」
    • 舞台の端で来たと叫ぶ加藤に仲本と志村がやってきてまず日刊ー、で二人がコケる。続いて加藤が反対側の端に行き、同様に来たと叫ぶと次は北の湖でコケる二本一組のギャグ。
  • 「5秒前!(5)、4、3、2、1!」「でーん(まーん、にーん)」(変な顔をする、いかりや長介とのペア)
    • 志村けん仲本工事が競馬ノミ行為問題で謹慎中のいわゆる“三人ドリフ”の時期に、苦し紛れから生み出されたギャグ。
  • 週刊新潮は明日発売でーす」
    • 何かの拍子に童謡『赤とんぼ』のメロディが流れた直後に言う(当時放送されていた同誌のTVCMのパロディ)
  • (「英語で鉛筆は?」「ペンシル」「では英語でタバコは?」に続いて)「タバコ、シル」
  • 「ちょっとだけよ、あんたも好きねえー」
    • ラテンのスタンダード・ナンバー「タブー」を伴奏にストリップを真似る。このギャグが人気を博したため「タブー」がヒットすることにもなった。この台詞は、広島のストリップ劇場にいたストリッパーの台詞をそのまま使ったものという[20][21]
  • 「どうもすんづれい(失礼)しますたー」
    • お巡りさんに扮し『女のみち』を歌い自転車で登場する際の挨拶。加藤が福島県出身のため、東北訛りが入っている。
  • 「仲本(加藤)さん、○○されましたなあ」「(背中を向けて)いやー、参った参った」(「参った」に合わせて自分の後頭部を叩く)(仲本工事とのペア)
    • 初期ではその後に荒井注が「私も○○されましたなあ。いやー、参った参った」と言おうとして、いかりやに突っ込まれるパターンがあった。
  • 「バカみたい」
  • 「ひっきしっ!(くしゃみ)」
    • 加藤の代表的ギャグのひとつ。
    • くしゃみの後に、上から降って来る金盥等に直撃されるのがお約束となっている。
  • 「ブエー(吐き真似)」
  • 「ポリポリポリ!マッハ!痒いー!」
  • 「まぁこのぉー」
    • 田中角栄が多用したフレーズをギャグにしたもの。
  • 加トちゃんペッ
  • 歌舞伎役者
  • 牛乳早飲み
  • ヒゲダンス
  • ヘコヘコ歩き

出演

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ここではソロ活動での出演作のみを記述する。ザ・ドリフターズとしての出演作についてはザ・ドリフターズを参照。

テレビ番組

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テレビドラマ

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ラジオ番組

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映画

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舞台

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題材にした作品

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ゲーム

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著作

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著書

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  • 『加藤茶パーソナルブック home』(カエルム、2023年9月、ISBN 978-4908024535

寄稿

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  • 志村けん『志村けん 160の言葉』(青志社、2020年8月、ISBN 978-4865901061)「志村がいた日々」
  • 高木ブー『アロハ 90歳の僕』(小学館、2023年4月、ISBN 978-4093891028)「ブーさんと私」

インタビュー

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  • 朝日新聞夕刊 「人生の贈りもの」(2008年12月1日 - 12月5日)
  • 聖教新聞社 「ワールド セイキョウ」(2020年1月23日)

ディスコグラフィ

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シングル

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発売日 タイトル 規格品番 収録曲 備考 オリコン最高位
東芝EMI / 東芝レコード
ザ・ドリフターズ名義 1976年9月5日 加藤茶のはじめての僕デス / 志村ケンの全員集合 東村山音頭 TP-10084 加藤茶のはじめての僕デス オリジナルは、子役時代の宮本浩次エレファントカシマシ)が歌っている。 8位
志村ケンの全員集合 東村山音頭 原曲は「東村山音頭」。
ファンハウス
1st 1995年5月25日 ズンドコ伝説 FHDF-1472 ズンドコ伝説 先輩の植木等紅白で歌唱し、瞬間最高視聴率を記録したヒット曲メドレー「スーダラ伝説」に続く形で制作・発売された、加藤のソロによるドリフターズのヒット曲メドレーで、スマッシュ・ヒットを記録。同名のアルバムには、エンディングのセリフが大人向けになっている「ADULT VERSION」で収録されており、その後に出たザ・ドリフターズのベストアルバム『ドリフだよ!全員集合 青盤』にもこのバージョンで収録された。しかし、『ザ・ドリフターズ・ベストコレクション』にはシングル・バージョンで収録されるなど、アルバムにより収録バージョンが異なる場合がある。 65位
ズンドコ伝説 (オリジナル・カラオケ)
ズンドコ伝説 (RADIO EDIT)
2nd RAP MIYO-CHAN FHDF-1483 RAP MIYO-CHAN Cha!K.A.T.O. with BRAND NEW MONKEYS名義
ザ・ドリフターズのシングル「ミヨちゃん」をラップ調にアレンジした曲。『ドリフ大爆笑』の歌コーナーでも披露された。
44位
RAP MIYO-CHAN (オリジナル・カラオケ)
3rd 1995年12月21日 加トちゃんのスキャットマン FHDF-1525 加トチャンのスキャットマン (CHA-MAN'S BASIC MIX) スキャットマン・ジョンスキャットマン」のカバー 62位
加トチャンのスキャットマン (CHA-MAN'S REGGAE MIX)
東芝EMI / EASTWORLD
4th 1998年7月29日 ハッピーライフ TODT-5173 ハッピーライフ MEN'S 5+加藤茶名義 -
Yarite-Yo!
テイチクエンタテインメント
5th 2011年10月5日 ワッショイ! 加トちゃんメドレー!! TECA-12311 ワッショイ! 加トちゃんメドレー!! -
むかいかぜ
加トー茶チャチャチャ論語塾

アルバム

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ミニアルバム

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発売日 タイトル 規格品番 備考
ファンハウス
1st 1995年6月25日 ズンドコ伝説 FHCF-2230
2nd 1996年2月1日 加トちゃんのミニアルバム FHCF-2275 「加トちゃんのスキャットマン」と「RAP MIYO-CHAN」オリジナルとリミックスを収録。「加トちゃんのスキャットマン」のカップリングだった「加トちゃんのスキャットマン」(CHA-MAN'S REGGAE MIX)は未収録。

参加作品

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発売日 タイトル 規格品番 備考
ビクターエンタテインメント / flying Dog
2012年5月23日 花は咲く VTZL-43(初回限定版)

VTCL-35132(通常版)

NHK東日本大震災復興応援ソング
花は咲くプロジェクトのメンバーとして歌唱参加。

タレントとしての評価

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  • いかりやは著書『だめだこりゃ』で「ネタを積極的に出すタイプではなかったが、笑いを誘う間が良かった。ミュージシャンとしての才能、特にリズム感がお笑いでも生きている」と評している。
  • ドラマーとしての評価も高く、コメディアンとしての認知が高かったころの『全員集合』でもその実力の一端を見せているほか(西城秀樹とのドラムバトルは、たびたび『全員集合』の回顧企画でも取り上げられている)、1974年の映画『ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!』でも加藤の長尺ドラム・ソロが披露されている。その経験の延長から、クラシックオーケストラを用いたコントではマリンバティンパニ邦楽盆踊りを題材にしたコントでは和太鼓等、打楽器の演奏もたびたび披露している。他にも、テレビ番組[どれ?]で大リーガーのランディ・ジョンソンとのドラムバトルを披露している。
  • それぞれの県や観光地ごとに自身がキャラクターモデルとなった「御当地加トちゃん」が発売されている。「御当地加トちゃん」の第1号は、2000年に静岡県限定で発売された「茶っきり加トちゃん」である。

演じた俳優

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1943年7月1日、東京都制施行
  2. ^ 朝日新聞『人生の贈りもの』によると、加藤は碇矢よりも少し先にドリフに加入したとされているが、いかりやの自伝『だめだこりゃ』では、いかりやの加入後しばらくして加藤が当時のドリフメンバーだった田中良夫から誘われて加入したとされている。
  3. ^ この時点で志村は「見習い」に、すわは「付き人」にそれぞれ昇格していた。
  4. ^ 末期の東宝クレージー映画では、植木と加藤のコンビ主演作も複数ある。なお、植木との初共演となった映画『日本一のゴマすり男』(1965年、東宝)では、本名の“加藤英文”でクレジットされている。
  5. ^ 2012年6月に死去した元メンバーの小野ヤスシの葬儀でも弔辞を読んでいる。
  6. ^ 加藤の場合、過去に冠動脈ステント挿入術の経験があり、この関係で抗凝固剤の服用をしていたために、緊急手術が必要な症状だったにもかかわらず、薬の効果が弱まるまで手術に踏み切れなかった。加藤の術式はこの冠動脈治療も同時に行うためにバイパス手術も同時に行われ、かつ抗凝固剤によるリスクを最小限にするために低体温にしての施術となり、通常の上行大動脈置換術より難易度が格段に高く、3時間近い心停止と人工心肺使用を伴う10時間にわたる長時間の手術となった。このことは 最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学 診察室『症例 大動脈解離〜加藤茶さんの場合〜』 に記されており、また同番組でも詳細が伝えられた。

出典

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  1. ^ a b TVスター名鑑2001(東京ニュース通信社)p.182
  2. ^ 週刊少女フレンド 1971年3月号 p.162 - 167「ドリフターズ全員解剖!!」
  3. ^ 加藤茶 45歳差婚! 23歳美人社長秘書と出会って2年加藤 茶 プロフィール本誌49号に掲載加藤 茶 最近のお気に入りは - POWER Watch
  4. ^ 6年の学習』1979年9月号より
  5. ^ 2020年10月24日 BS朝日 トップランナーの肖像
  6. ^ ザ・ドリフターズ 仲本工事が明かす「全員集合」裏話(4)ジャズ喫茶で加藤茶と遭遇
  7. ^ 『1955~1989 ちょっとだけ狂気TVの35年 昭和バラエティ番組の時代』(田村隆・著、河出書房新社 2018年1月15日初版)p.53-54
  8. ^ ラリー遠田 (2018年4月8日). “たけしに加藤茶が明かした志村けんがドリフに加入した裏事情”. AERA. https://dot.asahi.com/articles/-/99090 2019年3月11日閲覧。 
  9. ^ 加藤茶が語る志村けんのドリフ加入秘話 アサ芸プラス
  10. ^ 週刊文春 2007年12月26日号内記事「加藤茶と岩城滉一は警察から銃を取り上げられていた!」
  11. ^ “加藤茶のラスベガス豪遊伝説に鶴瓶も大爆笑”. ザテレビジョン. (2019年2月27日). https://thetv.jp/news/detail/180834/ 2020年2月7日閲覧。 
  12. ^ 平島廉久『検証視聴率』日本能率協会マネジメントセンター、1993年、p.225
  13. ^ https://www.oricon.co.jp/news/34122/full/
  14. ^ “加藤茶 46歳差妻とラブラブ披露宴!子づくり宣言も?”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年3月2日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/03/02/kiji/K20120302002741170.html 2016年10月31日閲覧。 
  15. ^ 加藤茶の嫁・綾菜が副業で大儲け…そのウラにある疑惑メンズサイゾー 2013年8月25日)
  16. ^ 「死なせてたまるか」闘病の加藤茶を支えた綾菜の“肝っ玉献身”に拍手喝采! Asa-Jo 2019/10/16 10:14(2020年5月18日閲覧)
  17. ^ 加藤茶 妻・綾菜への「財産狙い」批判めぐる驚きの真実「俺の方が逆玉なんだよ」 スポニチ 2022/11/11 21:31(2023年11月13日閲覧)
  18. ^ “加藤茶が志村さん特番で弔辞へ ドリフ推薦の兄貴分”. 日刊スポーツ. (2020年4月1日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202004010000515.html 2020年4月1日閲覧。 
  19. ^ “加藤茶、志村さんに弔辞「天国の長さんも、お前が最初だと思ってなかったと思うよ」全文掲載”. スポニチ Sponichi Annex. (2020年4月1日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/01/kiji/20200401s00041000303000c.html 2020年4月1日閲覧。 
  20. ^ 2008年8月16日放送の『オーラの泉[出典無効]
  21. ^ FLASH光文社、2010年4月6日号85頁
  22. ^ “藤子・F・不二雄のSF短編10作品をドラマ化、キャストに金子大地、堀田真由ら”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2022年12月9日). https://natalie.mu/eiga/news/504404 2022年12月10日閲覧。 
  23. ^ 「今月の広告批評 / 東海林さだお ; 高橋源一郎 ; 高橋章子 ; 中森明夫 ; 編集部」『広告批評』第102号、マドラ出版、1988年2月1日、106頁、NDLJP:1853067/55 
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関連項目

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外部リンク

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