倉田準二
倉田 準二(くらた じゅんじ、1930年1月18日 - 2002年1月21日)は、日本の映画監督である。神奈川県横浜市出身[1]。日本映画監督協会所属。
くらた じゅんじ 倉田 準二 | |
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本名 | 倉田 準二(同じ) |
生年月日 | 1930年1月18日 |
没年月日 | 2002年1月21日(72歳没) |
出生地 | 神奈川県横浜市 |
死没地 | 京都府京都市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | 時代劇 |
活動期間 | 1960年 - 2002年 |
配偶者 | 非公表(1958年 - 2002年) |
著名な家族 | 倉田欣史(長男) |
来歴
編集日本大学藝術学部映画学科を1950年に卒業後、東映京都撮影所に入社[1]。伯父の黒川渉三は東映の前身の東横映画の社長であった。製作事務係を経て助監督となり、丸根賛太郎、マキノ雅弘、内田吐夢、松田定次、佐々木康らに師事。1958年8月3日に結婚。1960年、「夜霧の長脇差」で監督デビュー。工藤栄一らとともに東映時代劇の全盛期の監督として活躍する。1960年代後半からは邦画の斜陽化によりテレビ映画に進出。『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ)では山内鉄也と交代でメインの演出を担当した。1980年代まで時代劇を作り続けた[1]。
人物
編集倉田の演出術は正統派だが、特撮を駆使するなど、かなり工夫を凝らしている。
東映京都で共に助監督を務めていた平山亨の証言によれば、倉田は内容が画一的な時代劇の在り方にうんざりしており、他の監督が忌避するような忍者ものが好きであったという[3]。また『仮面の忍者 赤影』では、当時の主流であった野田高梧の『シナリオ構造論』に基づく手法とは異なる伊上勝の脚本を東映の監督陣が貶す中、倉田は伊上の脚本には「間」があるためそれに触発されてアイデアが浮かぶと評価していた[3]。
監督作品
編集映画
編集- 夜霧の長脇差(1961年)
- 豪快千両槍(1961年)
- 人形佐七捕物帖 恐怖の通り魔(1961年)
- 同 闇に笑う鉄仮面(1961年)
- 地獄の影法師(1962年)
- 江戸忍法帖 七つの影(1963年)
- 月影忍法帖 二十一の眼(1963年)
- 十兵衛暗殺剣(1964年)
- 大忍術映画 ワタリ(1966年)※特撮監督
- まぼろし黒頭巾 闇を飛ぶ影(1967年)
- 飛び出す冒険映画 赤影(1969年)
- 恐竜・怪鳥の伝説(1977年)
テレビドラマ
編集- 仮面の忍者 赤影
- 大奥(1968年版)
- あゝ忠臣蔵
- 大坂城の女
- 徳川おんな絵巻
- 江戸巷談 花の日本橋
- 忍法かげろう斬り
- 眠狂四郎
- 宮本武蔵
- お耳役秘帳
- 大奥(1983年版)
脚注
編集- ^ a b c “倉田準二氏死去/映画監督”. 四国新聞社. 2022年6月17日閲覧。
- ^ 読売新聞2002年1月22日夕刊19面
- ^ a b OFM仮面ライダー5 2004, pp. 27–29, 赤星政尚「特集 果てしなき闘いのドラマ 『仮面ライダー』脚本家列伝」
参考文献
編集- 黒井和男『日本映画・テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年12月、131 - 132頁。ISBN 487376033X。
- 『映像メディア作家人名事典』日外アソシエーツ、1991年11月12日、221頁。ISBN 4816911111。
- 『日本映画人名事典・監督篇』キネマ旬報社、1997年11月、285 - 286頁。ISBN 4873762081。
- 『現代物故者事典(2000 - 2002)』日外アソシエーツ、2003年3月25日、225頁。ISBN 978-4-8169-1769-1。
- 『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー』 Vol.5《仮面ライダーX》、講談社、2004年11月10日。ISBN 4-06-367094-5。