九条基家

鎌倉時代中期の公卿、宮廷歌人。九条良経の三男。正二位・内大臣。勅撰集『続後撰和歌集』以下に79首入集。子孫は月輪家

九条 基家(くじょう もといえ)は、鎌倉時代中期の公卿歌人太政大臣九条良経の三男。官位正二位内大臣後九条内大臣、または鶴殿と号す。

 
九条 基家
時代 鎌倉時代中期
生誕 建仁3年(1203年
死没 弘安3年7月11日1280年8月7日
改名 鶴殿(幼名)→基家
別名 後九条内大臣、鶴殿内大臣
官位 正二位内大臣
主君 後鳥羽上皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原氏北家摂関家相続流九条家
父母 父:九条良経
母:藤原寿子(松殿基房の娘)
兄弟 立子慶政道家教家基家、良尊、道慶
養兄弟:良平
一条高能の娘、修理大夫藤原基定の娘
月輪経家月輪良基
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経歴

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後京極摂政太政大臣・九条良経の三男として誕生。幼名は鶴殿。幼くして父・良経が病死したことから、後鳥羽上皇が自分の猶子として内蔵頭藤原忠綱に養育を命じ、また外祖父の松殿基房も彼に公事に関する故実を伝授した。

摂関家出身のため建保3年(1215年正五位下に直叙され、侍従に任ぜられる。同年中に従四位下右近衛中将に昇進。建保5年(1217年従三位に叙せられ公卿に列すと、建保6年(1218年正三位権中納言承久元年(1219年従二位、承久2年(1220年権大納言、承久3年(1221年正二位と、摂関家の子弟として順調に昇進する。

寛喜3年(1231年)権大納言のすぐ下の序列であった右近衛大将西園寺実氏が基家を越えて内大臣に任ぜられたためか籠居する。摂政の子にして母は関白の娘、兄は現任摂関という出自に加えて、歌道に対しても並々ならぬ意欲で取り組んだ基家にとって、看過できない人事であったと考えられる。

嘉禎2年(1236年大納言、嘉禎3年(1237年)末にようやく内大臣に昇進する。翌暦仁元年(1238年)上表して内大臣を辞した。以後、薨去するまで出家せず「前内大臣」として歌壇で活躍した。なお、ライバルとも言える衣笠家良よりも先に内大臣となったため、内大臣を辞してからも序列は常に家良より上であった。

人物

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承久の乱の後、京における歌界で活躍し、一方では隠岐国に配流となっていた後鳥羽上皇と連絡をとりながら遠島歌合などに参加している。藤原定家が亡くなった後は定家の子為家と対立したが、弘長2年(1262年)「続古今和歌集」の撰者の一人に選ばれた。また「弘長百歌」「弘安百歌」に参加し、「和漢名所詩歌合」「雲葉和歌集」を撰出している。歌風は華麗でしかも古風を好み、葉室光俊(為家と対立的立場を取った)に近い立場を取った。「新時代不同歌合」の編者と見る説がある。「古来歌合」(散逸)を編纂したか。「新三十六歌仙」の一人として『新三十六人撰』に10首が撰ばれている。自身の家集もあったが散逸している。

早くから作歌に熱心であったものの藤原定家が単独撰者であった『新勅撰和歌集』に1首も採られなかったことも遠因であるか。藤原定家は基家よりも衣笠家良を評価していたようである。

源氏物語』の注釈書である幻中類林(及び光源氏物語本事)の著者とする説がある[1]

逸話

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徒然草』第223段には、基家が鶴殿内大臣と呼ばれているのは鶴を飼っているからではなく幼名が「鶴殿」であったため、と俗説を正す記事がある[2]

官歴

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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

系譜

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脚注

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  1. ^ 福田秀一「鎌倉中期反御子左派の古典研究 - 附・鎌倉中期歌壇史略年表 -」『成城文芸』第39号、成城大学文芸学部、1965年(昭和40年)5月、pp.. 24-57。のちに『中世和歌史の研究』角川書店、1972年所収。ISBN 4048640062
  2. ^ 徒然草』第223段
  3. ^ 中納言で中将を兼ねるのは摂関家の人だけに許されていた。

参考文献

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  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 建保5年(1217年)に基家が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「九条基家」および「九条良経」の項。
  • 新訂『徒然草』、西尾実・安良岡康作校注、岩波文庫
  • 『和歌史 —万葉から現代短歌まで—』 和泉書院
  • 野中和孝・山縣正幸『衣笠家良の生涯(上)生誕から内大臣致仕まで』