マクシミリアン (メキシコ皇帝)
マクシミリアーノ1世(スペイン語: Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝(在位:1864年 - 1867年)。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ(スペイン語: Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。
マクシミリアーノ1世 Maximiliano I | |
---|---|
メキシコ皇帝 | |
マクシミリアーノ1世 | |
在位 | 1864年4月10日 - 1867年5月15日 |
戴冠式 | 1864年4月10日 |
別号 |
オーストリア大公 ロンバルド=ヴェネト副王 |
全名 |
Fernando Maximiliano José María フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア Ferdinand Maximilian Joseph Maria フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア |
出生 |
1832年7月6日 オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿 |
死去 |
1867年6月19日(34歳没) メキシコ、ケレタロ州セロ・デ・ラス・カンパナス |
埋葬 |
1868年1月18日 オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 |
皇太子 | アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーン |
配偶者 | カルロータ・デ・ベルギカ |
家名 | アブスブルゴ=ロレーナ家 |
父親 | フランツ・カール大公 |
母親 | ゾフィー・フォン・バイエルン |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
サイン |
優れた海軍の軍歴ののち、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。これはベニート・フアレス率いる共和派軍の成功を確かなものにし、1867年に捕虜となり処刑された。
生い立ち
編集誕生
編集1832年7月6日、オーストリア帝国の首都ウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれた[1][2][3]。誕生ののちに洗礼を受け、「フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ」と命名された。ファーストネームは父方の伯父で後の皇帝となる代父フェルディナント1世に、セカンドネームは母方の祖父でバイエルン国王マクシミリアン1世・ヨーゼフにそれぞれ由来する[4][5]。
父のフランツ・カール大公は神聖ローマ皇帝フランツ2世(後のオーストリア皇帝フランツ1世)の成年を迎えた二人の息子の一人であり、父方ではハプスブルク=ロートリンゲン家であり、母・ゾフィーはヴィッテルスバッハ家のバイエルン王女であった[6][7]。知性と野心と強い意志のあるゾフィーは夫とはまったく共通するところはなかった。歴史家のリチャード・オコナー(Richard O'Conner)はフランツ・カール大公を「人生の最大の主要な関心事は肉汁たっぷりのミートボールを平らげることだという鈍重な肥った男」と表現している[8]。そのような人柄の違いにもかかわらず、この結婚は実りの多いものとなり、4度の流産の後、マクシミリアンを含めて4人の子供が生まれ育った[9]。
ウィーン宮廷には、マクシミリアンはフランス皇帝ナポレオン1世とフランツ1世の皇女マリー=ルイーズの一人息子であるライヒシュタット公爵フランツことナポレオン2世と母・ゾフィーとの不倫による婚外子ではないかという噂があった。その場合、マクシミリアンはナポレオン1世の孫、フランツ1世の曾孫ということになる[10]。このゾフィーとナポレオン2世の不倫問題とマクシミリアンがその賜物であるという説は歴史家によって退けられている[注釈 1]。
教育
編集スペイン・ハプスブルク家からの伝統を信奉し、マクシミリアンの養育は「アーヤ(aja)」と呼ばれるガヴァネスによって6歳までなされた。その後の彼の教育はチューターに委ねられた[14]。マクシミリアンの一日のほとんどが勉強に費やされた。7歳のときには週に33時間だった学習時間は17歳のときには週に55時間まで伸びた[15] 。学科は多様であり、歴史、地理、法律、理科から語学、軍事にフェンシングに外交まで及んだ[15] 。また母語のドイツ語に加えて、彼はハンガリー語、スラヴ語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語を学んだ[16] 。
幼いうちから、マクシミリアンは彼がより良く適任で二番目以上の価値のあるものすべてを証明しようと試み、兄のフランツ・ヨーゼフをあらゆる面でしのいでいた。オーストリア宮廷のたいへん堅苦しい環境はマクシミリアンの社交的な性格には耐えられなかった。マクシミリアンは陽気で、大変カリスマがあり、周囲の人を魅了することができた。また、魅力的な少年だったにもかかわらず、彼はまた奔放であった[17]。彼は教師をバカにしたり、しばしば、いたずらの扇動者となった。そのいたずらの被害者にはひ弱な伯父フェルディナント1世も含まれた[18]。それにもかかわらずマクシミリアンは大変人気者であった。フランツ・ヨーゼフより優る試みと魅了する能力は、物静かで内向的な兄とは大きな隔たりがあった。それは年を経るごとに広がり、子供のころには親友だった兄弟はやがては名ばかりのものとなった[19]。
1848年に革命が起きた。抗議と反乱に直面した皇帝フェルディナント1世は退位し、マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフが次の皇帝に選ばれ、フランツ・ヨーゼフ1世となった[20][21]。マクシミリアンは兄の遠征に同行し、帝国一円の反乱を鎮圧した[22][21]。1849年のみ、オーストリアでは革命は数百人の反乱者の処刑と数千人の投獄とともに鎮圧された。マクシミリアンは無慈悲と感じたものに恐怖し、それについて広く不平を言った。彼は後に「私たちは、自分たちの生きている時代を啓蒙時代と呼ぶ、しかし未来に向かって人々が司法上の不正義にたいする恐怖と驚きのうちに振り返る光景が、いまのヨーロッパにある。それは、復讐の精神で法の上の政府に代わり恣意的な統治をする政府に異議を唱えた者たちを罪に問い、死刑を言い渡す光景である」と指摘している[23][24]。
オーストリア海軍での軍歴
編集1852年にブラジル皇女マリア・アメリア・デ・ブラガンサと婚約するも、1853年にマリア・アメリアは病死。翌1854年、オーストリア海軍の司令長官となる。
フェルディナント・マクシミリアンは特に利発な少年であった。芸術の分野ではかなりの教養を現し、科学においてとくに植物学には幼いうちから興味を示した。軍に入隊すると、オーストリア海軍で訓練を受けた。彼は海軍に身を投じると情熱を注ぎ、急速に昇進した。
マクシミリアンは18歳で中尉になり、1854年には司令官としてコルベット「ミネルヴァ(Minerva)」の帆走を指揮し、この航海ではアルバニアとダルマチア沿岸を探検した。22歳で、オーストリア海軍の少将に就任した。彼以前のフリードリヒ大公(1821年–1847年)のように彼は戦艦に鋭い興味をしめし、海軍は彼によって皇帝家からの影響力の支援を獲得した。外交において海軍力を重視していなかったオーストリアにとってこれは画期的であった。
それまで海軍は公的な支援は相対的に低く、皇子の積極的な支援で、海軍は顕著な公的な関心と資金を引き出すことを可能にした。海軍少将として、マクシミリアンは多くの海軍近代化のための改革を実行し、彼は、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督がのちに勝利を収めるフリート艦と同様にトリエステ軍港とポーラ(現在のプーラ)軍港の建設を支援した。彼はまた世界一周航海 (1857年–1859年) を企画し、フリゲート艦 SMS Novaraはオーストリアでははじめて世界一周航海を果たした戦艦となった。
ロンバルディア・ヴェネツィア副王
編集フェルディナント・マクシミリアンは政治的には、当時流行していた進歩思想の影響を受けていた。彼は自由主義の意見の持ち主であり、これによって1857年2月にロンバルド=ヴェネト王国の副王に任命された。
1857年7月27日、ブリュッセルで、マクシミリアンはベルギー国王レオポルド1世と王妃ルイーズ=マリー・ドルレアンの王女シャルロッテと結婚した。彼女は、イギリスのヴィクトリア女王とアルバート公夫妻のいとこであった。マクシミリアンとシャルロッテの間には子供はいなかった。
二人は、ミラノに総督としてあるいはロンバルディア・ヴェネトの副王として1857年から1859年にフランツ・ヨーゼフ1世が彼を副王から解任するまでの間ミラノに暮らした。
皇帝はイタリアでの弟による自由主義政策の実行に怒った。彼の解任からほどなく、オーストリアはイタリア地域のほとんどでの統治の影響力を失った。マクシミリアンはトリエステで隠遁した。彼はトリエステ近郊にミラマール城を築いた。
メキシコ皇帝
編集この頃メキシコは、自由主義的な改革を推進しようとするベニート・フアレスらと保守派の間で内戦状態(「レフォルマ戦争」)となっており、1861年までにはフアレス側が優勢となった。そのため、保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返しを図った。同年、アメリカ合衆国が南北戦争に突入して介入が困難だったこともあり、フランスなどがメキシコに軍事干渉を行い、1864年にナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡として帝位に就けた。
メキシコ帝冠受諾
編集1859年、フェルディナント・マクシミリアンはメキシコ貴族からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・マルチネス・デ・リオに率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。
当初マクシミリアンは受け入れなかったが、シャルロッテ妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけて兄のフランツ・ヨーゼフ1世と協議した[25]。マクシミリアンは、ブラジルの熱帯雨林での植物学の調査が伴った探検で彼の止むことのない欲望を満たそうとした。
しかしフランスのメキシコ出兵の後、ナポレオン3世の圧力の下、エリー・フレデリック・フォレー将軍のメキシコシティ攻略と帝国設立の布告を確認する国民投票(この投票は「フランス軍が占領している地域のほとんど」で行われたが、マクシミリアンには投票の胡散臭さは伝えなかった)の後、1863年10月に彼はメキシコ帝冠を受諾した。
兄フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにもかかわらず[25]、頑強とはいえない皇太子ルドルフに万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した[26]。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、オーストリア皇位継承権を放棄することを署名した[26]。この決定により、マクシミリアンは皇位継承権のみならずオーストリア皇族としての権利も喪失したが、これは彼がヨーロッパを離れる直前まで知らされなかった。シャルロッテ大公妃はこの後、「カルロータ皇后陛下」として知られるようになった。
メキシコ皇帝としての治世
編集1864年4月、フェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞した。彼はトリエステからノヴァラ号に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」(オーストリア)と 「テミス号(Themis)」(フランス)とを従えて皇帝のヨット「ファンタジー号(Phantasie)」はこれらを導きミラマール宮殿を出港した[27]。彼らは教皇ピウス9世の祝福を受け、ヴィクトリア女王はジブラルタル海峡を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令した。
新皇帝は群衆からの手荒な祝意の中ベラクルスに同年5月21日に上陸した。彼はメキシコの保守派とナポレオン3世の支援があったが、フアレス率いる自由主義軍からは彼の帝国を拒否されて以来、一連の困難に巻き込まれた。フランス軍と共和派の間の連続的な戦闘があった。
皇帝夫妻はメキシコシティを帝都に選んだ。皇帝夫妻はチャプルテペク城を居城にした。この城はかつてのメキシコシティの郊外の丘の上にあり、アステカ皇帝の離宮であった。 マクシミリアーノ1世はチャプルテペクからメキシコシティ中心部へと通り抜ける道路の建設を命じた。もともと「皇后通り」と呼ばれたこの通りは今日ではメキシコシティの目抜き通り「レフォルマ通り」として知られる。
彼はまたクエルナバカに離宮を求めた。皇帝夫妻はメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂での戴冠式を計画したが、政情不安のせいで、挙行されることはなかった。マクシミリアーノ1世は貧民の生活環境と上流階級の壮大なアシエンダの格差に衝撃を受けた。皇后カルロータは貧しい人々のために富裕層から金を集めるためのパーティを主催した。マクシミリアーノ1世の皇帝としての最初の法律のひとつは、労働時間の制限と児童の労働の禁止である。彼は、10ペソ以上の農民の借金を全て帳消しにする「徳政令」を出したほか、公共財産を回復させ、いかなる体罰も禁止した。彼はまた、アシエンダの独占を廃し、今後は貧民が借金のかたに人身売買されないようにした。
皇帝夫妻には子供がいなかったため、二人はアグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーンとそのいとこサルバドール・デ・イトゥルビデ・イ・マルサンを養子にした。二人とも1820年代の短命なメキシコ帝国の皇帝アグスティン1世の孫であった。二人は養子たちに「殿下」の称号とプリンスの位を与え、彼を王朝の跡継ぎとしたが、王家の血が流れていない彼ら二人には帝冠を与えるつもりはなかった[28]。それは彼の弟カール・ルードヴィヒにあてた手紙に、彼は自問自答している、それによるとカールがマクシミリアーノ1世にカールの息子の一人を跡継ぎとして与える、あるいは彼がイトゥルビデの子供らに全てを与えるかと[28]。
保守派同盟の狼狽に対して、マクシミリアーノ1世はフアレス政府によって提案されている自由主義政策のいくつかを支持した-農地改革、信仰の自由、投票権の大土地所有者以外への拡大などである。はじめ、マクシミリアーノ1世はフアレスに帝国に忠誠を誓うなら恩赦し、首相に任命すると提案したがフアレスは拒絶した。のちに、マクシミリアーノ1世は捕えたフアレス支持者を射殺するよう命令を出し、その報復として共和派は帝国の支持者をすべて処刑した。結局、これは彼の政権をかえって悪化させる戦略的誤りになることが証明された。
南北戦争終結後、アメリカ合衆国はナポレオン3世にマクシミリアーノ1世へのフランスの支援をやめ、メキシコから撤退するように外交的な説得の圧力を増してきた。ワシントンはフアレスのパルチザンの供給を開始し、彼の同盟者ポルフィリオ・ディアスは「敗北したことで」彼らのための兵站基地をメキシコ国境のエルパソ・デル・ノルテを構えた。
フアレスを復帰させるアメリカの侵攻の見通しは、大義を捨て、首都を離れる多数の皇帝信奉者を生み出した[29]。
その間、マクシミリアーノ1世は元南軍をメキシコの一連の植民地、「シャルロッテ植民地」とニュー・ヴァージニア植民地 ほか検討されていた12近くの植民地に移住するように招いた。この構想は国際的なアメリカ合衆国海軍の海洋学者で発明家のマシュー・フォンテーン・モーリーによる。マクシミリアーノ1世はまたどの植民地にもオーストリア他ドイツ諸国の植民者を招いた[30]。
それにもかかわらず、マクシミリアーノ1世の退位の緊急性はメキシコ国外において誰の目にも明らかなものとなっていた。この年、ナポレオン3世はメキシコのレジスタンスとモンロー主義のもと反対するアメリカ合衆国軍と対峙しているフランス軍を撤退させた。時折しもナポレオン3世とその軍は本国で、これまで増強されてきたプロイセン軍と宰相オットー・フォン・ビスマルクに直面していた。
カルロータは夫の帝国への支援を求めてパリ、ウィーンとヨーロッパを旅し、ローマでは教皇ピウス9世との謁見に成功したが、彼女の努力は失敗に終わり、結果彼女は深刻な情緒の崩壊を起こし、2度とメキシコに帰ることはなかった。彼女の夫が処刑されたのち、彼女は隠遁生活を送り、決して夫の死を認めなかった。隠遁の場はイタリア、トリエステのミラマール城 、次にベルギーのメイゼのボウハウト城であった [31]。そこで1927年1月19日彼女は死んだ[32]。
陥落
編集しかし、メキシコ国民からの支持が得られなかったこと、南北戦争を終えた合衆国がモンロー主義に基づきマクシミリアーノ1世の即位に反対したこと、マクシミリアーノ1世自体が自由主義的思想を有しており、メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかったことなどから、彼の地位は当初より非常に脆いものであった。さらに、ヨーロッパ本国でプロイセンが急速に強大化したため、フランスはメキシコ問題に拘泥することを望まなかった。そのため、メキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまった。
ナポレオン3世によってメキシコの放棄が要求され、メキシコからフランス軍が引き上げることになったのはメキシコ皇帝の正統性にとって大きな打撃であったけれども、マクシミリアーノ1世は彼に従うものを見捨てるのを拒んだ。彼は自身に従うものに退位するか否かを決定することを許可した。ミゲル・ミラモン、レオナルド・マルケスとトマス・メヒアのような忠実な将軍らは共和派に挑戦するべく挙兵することを誓った。マクシミリアーノ1世は10,000人のメキシコ人帝国軍と共に戦った。1867年2月ケレタロに撤退し、彼はそこで何週間も包囲を受けたが、5月11日に敵の戦線からの脱出を試みた。この脱出計画は、門を開いて軍を引き入れるという協定を共和派と交わしていた、ミゲル・アンヘル・ロペス大佐によって妨害された。ロペスは皇帝が助命・解放されるものと考えていたようである[33]。
1867年5月15日にケレタロは陥落し、翌朝マクシミリアーノ1世は捕えられた。フェリックス・ザルム=ザルム率いる王党派の軽騎兵旅団による脱出の試みが失敗した後、軍事裁判にかけられ、彼は死刑を言い渡された。ザルム=ザルムの妻アグネス・ザルム=ザルムやマクシミリアンの弁護人を擁立したメキシコシティ駐普大使アントン・フォン・マグヌスなどはフアレスに直接面会して皇帝の助命を嘆願したほか、ほかの多くのヨーロッパの元首とほかの著名人(著名な自由主義者であるヴィクトル・ユーゴーとジュゼッペ・ガリバルディが含まれる)が電信と手紙をメキシコに送り、皇帝の助命を嘆願した。 フアレスは個人的にはマクシミリアーノ1世が好きだったが[34]、彼は、大勢のメキシコ人がマクシミリアーノ1世に対する戦いで戦死した観点から、刑の減軽を拒んだ。彼は、メキシコは外国勢力によって介入したいかなる政権に対して、断固たる態度をとるというメッセージを発信する必要があると信じていた。
刑は1867年6月9日に「鐘の丘(Cerro de las Campanas)」で執行された。このときマクシミリアーノ1世はミラモンとメヒアとともに兵士によって銃殺された。
彼はスペイン語で話し、死刑執行者に、母が自分の死に顔を見られるように頭は撃たないようにひと瓶の金貨を与えた[注釈 2]。
最期の言葉は「私は全ての人を許そう!お願いだ、みなも私を許してくれたまえ!いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む!メキシコ万歳!独立万歳![35][36]」。 また、2人のメキシコ人の将軍は「皇帝万歳!」と叫んで射殺された。
なお、マクシミリアンの処刑が兄フランツ・ヨーゼフ1世に知らされたのは、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が成立したことを祝う、ブダペストでの祝賀行事の最中だった[37]。
埋葬
編集処刑後、遺体は防腐処理されてメキシコで公開された。ほどなくして、オーストリアのヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督が「ノヴァラ号」で遺体をオーストリアに戻した。トリエステ到着後に棺はウィーンに運ばれて、1868年1月18日にカプツィーナー納骨堂に埋葬された。
遺産
編集兄のフランツ・ヨーゼフ1世とは仲が良く、弟の死を知って兄は悲しんだ。また、妻のシャルロッテは精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めなかった。ナポレオン3世はこの失政でフランス国民の信頼を失い、帝政が崩壊する遠因となった。エドゥアール・マネは『皇帝マキシミリアンの処刑』でフランスの軍服を着た銃殺隊による処刑場面を描き、マクシミリアーノ1世を見殺しにしたナポレオン3世を批判した。
マクシミリアーノ1世は、自由主義的な改革、メキシコの人々を助けようとする稀有な希望、忠実につき従うものを見捨てることを拒絶したこと、ケレタロ包囲戦での個人的な勇敢さでいくらかの歴史家によって称賛されてきた。しかし、他の研究者はマクシミリアーノ1世は短期間の政治的軍事的問題、第2次メキシコ帝国の急速な崩壊の間のメキシコでの民主主義の復活の障害であったと考える。
マクシミリアーノ1世は1934年のメキシコ映画w:Juárez y Maximiliano でEnrique Herreraによって演じられ、1939年のアメリカ合衆国の映画Juarez ではw:Brian Aherneによって演じられた。彼はまた1954年の映画『ベラクルス』ではw:George Macreadyによって演じられている。
称号と紋章
編集称号
編集- 1832年7月6日 – 1864年4月10日: オーストリア大公並びにオーストリアの皇子、ハンガリー並びにボヘミアの王子、ロートリンゲンの公子にしてハプスブルク家の子息ほか…高貴なる大公にして君侯、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ殿下
- 1864年4月10日 – 1867年6月19日:皇帝陛下
皇帝としての称号
編集神の恩寵と人民の意志によるメキシコ皇帝 ドン・マクシミリアーノ1世陛下
栄典
編集メキシコ帝国
編集主宰者としてメキシコ帝国の以下の勲章を佩用していた。
外国からの栄典
編集- ブラジル帝国南十字星国家勲章
- ポルトガル王国塔と剣大十字勲章
- プロイセン王国赤鷲大十字勲章
- ハノーファー王国ゲルフ王家大十字勲章
- オランダ王国ライオン大十字勲章
- ハンガリー王国聖イシュトヴァーン大十字勲章
- フランス帝国レジオン・ド・ヌール大十字勲章
- 両シチリア王国聖フェルディナンドおよびメリット大十字勲章
- ベルギー王国レオポルド軍事大十字勲章
- ギリシャ王国救いの御子大十字勲章
- トスカーナ大公国聖ジュゼッペ大十字勲章
- ブラウンシュヴァイク公国ハインリヒ獅子公大十字勲章
- ヘッセンフィリップ大王大十字勲章
- マルタ騎士団軍事ソブリン大十字勲章
- プロイセン王国黒鷲騎士勲章
- 両シチリア王国聖ヤヌアリウス騎士勲章
- バーデン選帝侯国忠誠騎士勲章
- バイエルン王国聖フーベルト騎士勲章
- スウェーデン王国 セラフィム騎士勲章
- オーストリア帝国金羊毛騎士勲章
- ザクセン王国ルーの王冠騎士勲章
- ハノーファー王国聖ゲオルク騎士勲章
- ロシア帝国聖アレクサンドル・ネフスキー騎士勲章
- ロシア帝国聖スタニスラウス騎士勲章
- ポーランド王国白鷹騎士勲章
- ロシア帝国聖アンドレイ騎士勲章
- ロシア帝国聖アンナ騎士勲章
- プロイセン王国黒鷲騎士勲章
系譜
編集マクシミリアーノ1世 | 父: オーストリア大公フランツ・カール |
祖父: フランツ2世 (神聖ローマ皇帝) |
曽祖父: レオポルド2世 (神聖ローマ皇帝)[1] |
曽祖母: スペイン王女マリア・ルドヴィカ[3] | |||
祖母: マリア・テレジア |
曽祖父: フェルディナンド1世 (両シチリア王)[4] | ||
曽祖母: マリア・カロリーネ[2] | |||
母: ゾフィー |
祖父: マクシミリアン1世 (バイエルン王) |
曽祖父: プファルツ=ツヴァイブリュッケン公子フリードリヒ | |
曽祖母: プファルツ=ズルツバッハ公女マリア・フランツィスカ | |||
祖母: カロリーネ[3] |
曽祖父: バーデン辺境伯子カール・ルートヴィヒ | ||
曽祖母: ヘッセン=ダルムシュタット方伯女アマーリエ |
- [1]と[2]は、マリア・テレジアとフランツ1世 (神聖ローマ皇帝)の子で兄妹。皇后カルロータ(シャルロッテ)とは、曾祖母[2]を同じくするはとこ同士。
- [3]と[4]は、カルロス3世 (スペイン王)の子で姉弟。
- [5]の妹に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の皇后ルイーゼ、スウェーデンの廃王グスタフ4世アドルフの妃フリーデリケらがいる。
- より詳細な系譜
マクシミリアン (メキシコ皇帝)の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
系図
編集フランツ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント1世 | フランツ・カール | ||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・ヨーゼフ1世 | (メキシコ皇帝) マクシミリアン | カール・ルートヴィヒ | |||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ | フランツ・フェルディナント | オットー | |||||||||||||||||||||||||||
(貴賤結婚) | カール1世 | ||||||||||||||||||||||||||||
オットー | |||||||||||||||||||||||||||||
カール | |||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集注釈
編集- ^ 「そのようなありそうもない性的関係の証拠はゾフィーとライヒシュタット公爵の愛情による結びつきの理解を誤らせる。二人はお互いを外国の宮廷での順応に尽きず待った部外者と思っていた」とアラン・パーマーは言った[7]。 パーマーいわく、「彼らの『自信』は恋人というよりも姉と弟のそれである」[7] ジョン・ハスリップ(Joan Haslip)によれば、彼女とライヒシュタット公爵が恋人同士だったと示唆する文書での証拠はない[11]。「ナポレオン2世が実際にマクシミリアンの父かどうかは、怪しげな推測か、ホーフブルクのながい冬の夜の宮廷人と使用人によって語られたゴシップのようなもの」とリチャード・オコナーは言った[12]。「この噂を補強する証拠の断片もない」とジャスペール・リドリー(Jasper Ridley)は断言した[10]として以下のように続ける。「ゾフィーは聴罪司祭への手紙に『マクシミリアンはナポレオン2世の子供だった』と告白しており、この手紙は1859年に見つかり、破棄されたといわれる。しかし、この話を信じる道理がない。彼女が子供あるいは弟と認識している少年と性的関係を持とうとするだろうか?」[13] 1832年のライヒシュタット公爵の死後二人以上の息子の誕生はこの主張の信憑性をなお一層低下させる[13]。
- ^ 処刑者に金銀を渡すのはヨーロッパ貴族の伝統的な作法であり、突飛で絶望的な行為では決してない。またマクシミリアーノ1世は狼狽せず威厳を持って刑に臨んだという記録もある。
出典
編集- ^ Haslip 1972, p. 6.
- ^ Hyde 1946, p. 4.
- ^ Corti 1929, p. 41.
- ^ Haslip 1972, pp. 6–7.
- ^ Hyde 1946, p. 5.
- ^ Palmer 1994, pp. 3, 5.
- ^ a b c Palmer 1994, p. 3.
- ^ O'Connor 1971, p. 29.
- ^ Haslip 1972, p. 7.
- ^ a b Ridley 2001, p. 44.
- ^ Haslip 1972, p. 4.
- ^ O'Connor 1971, p. 31.
- ^ a b Ridley 2001, p. 45.
- ^ Hyde 1946, pp. 6–7.
- ^ a b Hyde 1946, p. 7.
- ^ Hall 1868, p. 17.
- ^ Haslip 1972, p. 11.
- ^ Haslip 1972, pp. 14–15.
- ^ Haslip 1972, p. 17.
- ^ Haslip 1972, p. 29.
- ^ a b Hyde 1946, p. 13.
- ^ Haslip 1972, p. 31.
- ^ Haslip 1972, p. 34.
- ^ Hyde 1946, p. 14.
- ^ a b 江村 1994, p.104
- ^ a b リケット(1995) p.108-109
- ^ Haslip, Joan, Imperial Adventurer – Emperor Maximilian of Mexico, London, 1971, ISBN 0-297-00363-1
- ^ a b José Manuel Villalpando, Alejandro Rosas (2011), Presidentes de México, Grupo Planeta Spain, pp. pages are not numbered, ISBN 9786070707582
- ^ Paul H. Reuter, "United States-French Relations Regarding French Intervention in Mexico: From the Tripartite Treaty to Queretaro," Southern Quarterly (1965) 6#4 pp 469-489
- ^ Rolle, Andrew F., The Lost Cause: The Confederate Exodus to Mexico, University of Oklahoma Press, 1992, ISBN 978-0-8061-1961-8.
- ^ "Charlotte of Mexico's Misfortune", New York Times, March 6, 1885.
- ^ "Belgium Mourns for Dead Empress; Tragedy of Life of Charlotte, Wife of Maximilian, Is Recalled", New York Times, January 19, 1927.
- ^ McAllen, M. M. (April 2015). Maximilian and Carlota: Europe's Last Empire in Mexico. pp. 354–355. ISBN 978-1-59534-263-8
- ^ Maximilian and Carlota by Gene Smith, ISBN 0-245-52418-5, ISBN 978-0-245-52418-9
- ^ 「イカロスの失墜」菊地良生、1994年、新人物往来社 ISBN 4-404-02130-5 C0023 の P294 L1,2 より
- ^ Giving executer(s) a portion of gold/silver is well-established among European aristocracy since medieval time and not an act of desperation. In other accounts, Maximilian calmly said, "aim well", to the firing squad and met his death with dignity.
- ^ ウィートクロフツ 2009, p.350
参考文献
編集- Corti, Egon Caesar Count (1929). Maximilian and Charlotte of Mexico. 1–2. New York and London: Alfred A. Knopf
- Hall, Frederick (1868). Invasion of Mexico by the French; and the reign of Maximilian I., with a sketch of the Empress Carlota. New York: James Miller
- Haslip, Joan (1972). The Crown of Mexico: Maximilian and His Empress Carlota. New York: Holt, Rinehart and Winston. ISBN 0-03-086572-7
- Hyde, H. Montgomery (1946). Mexican Empire: the history of Maximilian and Carlota of Mexico. London: Macmillan & Co.
- Kératry, Émile (1868). The rise and fall of the Emperor Maximilian. A narrative of the Mexican Empire, 1861-7, with the imperial correspondence. London: Sampson Low, Son, and Marston
- O'Connor, Richard (1971). The Cactus Throne: the tragedy of Maximilian and Carlotta. New York: G. P. Putnam's Sons
- Palmer, Alan (1994). Twilight of the Habsburgs: The Life and Times of Emperor Francis Joseph. New York: Atlantic Monthly Press. ISBN 0-87113-665-1
- Ridley, Jasper (2001). Maximilian & Juarez. London: Phoenix Press. ISBN 1-84212-150-2
- イカロスの失墜 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 菊池良生 新人物往来社, 1994.9.
- 江村洋『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍、1994(平成6)年9月20日。ISBN 4-487-79143-X。
- リチャード・リケット 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社、1995年(平成7年)。ISBN 4404021305。
- アンドリュー・ウィートクロフツ 著、瀬原義生 訳『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』文理閣、2009(平成21)年7月15日。ISBN 978-4-89259-591-2。
関連項目
編集外部リンク
編集著書「わが人生の思い出」についての外部リンク。
- Recollections of my life by Maximilian I of Mexico Vol. I at archive.org
- Recollections of my life by Maximilian I of Mexico Vol. II at archive.org
- Recollections of my life by Maximilian I of Mexico Vol. III at archive.org
|
|
|
|