ザ・モップス
モップス(The Mops)は、かつて存在した日本のグループ・サウンズ、ロックバンドである。日本のサイケデリック・ロックにおける草分け的存在として知られる。
モップス | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル | |
活動期間 | 1966年 - 1974年 |
レーベル | |
メンバー | |
旧メンバー | 村上薫(ベース) |
メンバー
編集名前 | 生年月日 | 担当 | 備考 |
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鈴木ヒロミツ (すずき ひろみつ) |
1946年6月21日 - 2007年3月14日(60歳没) | リード・ヴォーカル | |
星勝 (ほし かつ) |
1948年8月19日(76歳) | ギター ヴォーカル |
解散後、音楽プロデューサーやアレンジャーとして活動。 |
三幸太郎 (みゆき たろう) |
1950年2月13日 - 2021年7月??日 | リズムギター →ベース |
当初はリズムギターだったが、村上の脱退によりベースへ転向。 |
スズキ幹治 (すずき みきはる) |
1948年3月26日(76歳) | ドラム | 鈴木ヒロミツ弟、解散後、音楽プロデューサー鈴木ミキハルとして、浜田省吾などをプロデュース。 |
元メンバー
編集名前 | 生年月日 | 担当 | 備考 |
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村上薫 (むらかみ かおる) |
1948年6月28日(76歳) | ベース | 1969年に脱退。 |
来歴
編集デビューまで
編集1966年、埼玉県で星、三幸、村上、スズキ幹治の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」として結成。そこへスズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツがヴォーカリストとして加わり、五人組バンドとして本格的な活動が開始された。アニマルズのエリック・バードンに心酔する鈴木ヒロミツ[注 1]の“黒っぽいロック“(ブルース・ロック)を指向する。バンド名の由来や理由に「(メンバーの)頭髪がモップみたいだった」、「人々の心を音楽でモップのように綺麗にしてあげたい」などと、鈴木ヒロミツは後年説明している。
都内のゴーゴー喫茶などで活動中にスカウトされ、1967年にホリプロと契約。同年11月、日本ビクターよりシングル「朝まで待てない/ブラインド・バード」でデビュー。いわゆるアイドル的人気のグループサウンズ(GS)とは異なり、主としてジャズ喫茶、米軍キャンプなどでの演奏で活動。
デビューに際しては「日本最初のサイケデリック・サウンド」を標榜したが、これは1967年夏、アメリカ旅行でサイケデリック・ムーヴメントを目の当たりにしたホリプロ社長・堀威夫の発案を、メンバーが受け入れてのものだった。統一したユニホームでジャズ喫茶、プールやデパート屋上で演奏したり、スーツ着用でナイトクラブでの営業をする機会が多かった当時のグループサウンズ中堅グループの中では異色異端で、アングラ(風俗)ヒッピーを意識した各人ばらばらの奇抜な衣装を着用[注 2]。ドラムセットを客席に対して横向きにし、ステージには楽器を縦並びに置き目隠しをして演奏したりした。サイケデリック・パーティーの開催では報道陣を招きLSDパーティを挙行し[注 3]、日本に輸入されて間もない装置を使ったライト・ショーなど、サイケのイメージを徹底して演出した。また、1968年4月には、現代音楽の一柳慧の公演に加わるなど、前衛芸術的な活動を繰り広げている[1]。しかし1968年の暮れには日本でのサイケデリック・ムーヴメントも退潮を迎え[2]、モップスも本来のシンプルなR&B、ロックンロール志向に回帰する[3]。
レコード会社移籍
編集1968年、アルバムの選曲において所属レコード会社のビクターから「アイドルのモンキーズのカバー曲をやれ」と言われたが、断固として「アニマルズやゼムをやりたい」と譲らず対立。日本ビクターと紛糾した事情はプロダクションの意向が大きく作用した。日本ビクターではモップス、ザ・ダイナマイツ、ザ・サニー・ファイブら所属プロダクションがそれぞれ異なる3組を同時デビューで送り出した。従来の大手レコード会社が歌謡曲で一枚のシングル盤を発売する際には演奏者、歌手、楽曲、作者という分業制が敷かれていた[注 4]。分業から楽曲は専属か契約の作詞作曲家だけが曲を提供する不文律の協定が存在し、日本コロムビアではペンネーム弾厚作で自作曲を作り自分で演奏し発売した加山雄三が問題視され、新興企業で協定が曖昧な東芝音工に移籍を余儀なくされた。レコード会社ではグループサウンズなど自作曲を歌うアーティストの扱いにはこの協定が通用しない配給提携の海外レーベル・ブランド名を拝借してその傘下から発売し問題回避に努め、日本ビクターではザ・スパイダース、森山良子などをフィリップス・レコードから発売し[注 5]、この日本ビクター・ブランドのダイナマイツ、サニー・ファイブ、オックスの場合、レーベルが契約する橋本淳ら作詞・作曲家の楽曲、洋楽カバー曲、グループの自作曲を混在させる協定妥協策に従う一方、モップスは加えて営業戦略や企画案をプロダクション主導で、作詞家はプロダクション側後押し外部から新人でオフィス・トゥー・ワンに所属する阿久悠を起用など、日本ビクター側の意向が通り難い存在だった。事務所の合併でホリプロ所属になったオックスは営業上の成果をあげ双方良好な折り合いをつけた[注 6]。
こうした経緯からビクターから解雇され、東芝音楽工業に移籍した[注 7]。1969年には、プロ活動の先行き不安を理由にベース担当の村上が脱退。メンバーの補充はせずに三幸の担当をそれまでのリズム・ギターからベース・ギターへ変えて四人のまま活動を続け、東芝傘下のエクスプレスから「眠り給えイエス」(1969)をリリース[注 8]。1970年に入り日本のロック草創期、いわゆる「ニュー・ロック」のバンドの1つとして活動し、「御意見無用」(1971)、ヒット曲「月光仮面」(同)などを発表。
1972年には吉田拓郎が手がけた「たどりついたらいつも雨ふり」がラジオでさかんにオンエアされ、若者に支持された。また、星勝はグループ在籍中から編曲家・作曲家としても活動し[注 9]、ザ・ピーナッツなどの良質な和製ポップスや、井上陽水らフォーク勢に楽曲を提供し、ヒットさせた。しかし歌謡曲とフォークブームに追いやられたロック音楽でのバンド活動の限界により、それぞれの活路を求めて[注 10]1974年5月に解散。アルバム『EXIT』が同年7月に発売された。
解散後
編集その後、鈴木ヒロミツは俳優やタレントとして活動。星勝は前述に加えテレビ番組などの音楽を担当。1974年10月放映のドラマ『夜明けの刑事』では鈴木ヒロミツが出演者、星勝は音楽担当として「再会」している。鈴木幹治はモップス解散直後から、愛奴とソロ活動に移行した浜田省吾を支えた。三幸太郎は一時期井上陽水のバックバンドに参加(「東京ワシントンクラブ」に当時の音源が収録)したのちマネージメント業に転じて活動していたが2011年頃から音楽活動を再開し、三幸太朗Badboys&girlsとして演奏活動を行っている。
1980年代以降、サイケデリック期の楽曲については、欧米のガレージ・ロックファンから評価されるようになった。「ブラインド・バード」などの楽曲は複数の海賊盤コンピレーションに収録され、アメリカでは1stアルバム「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」が何百ドルというプレミアつきで販売されていたという(1994年当時)[5]。
逸話
編集ヒット曲「月光仮面」は、元々ジャズ喫茶[注 11]のライヴで演奏するレパートリーのひとつだった。1969年にはブルース(実際はブルース・ロック)が流行し、ゴールデン・カップスなども取り上げていたが一般には新奇で、ジョン・メイオールのカバー演奏などを元々得意にしていたモップスが、耳馴染みの無い観客へ「ブルース」を説明するため「月光仮面」をモチーフにアレンジしたのが始まり。やがてリクエストに応え「月光仮面」をタンゴ風、ロックン・ロール風・・・、と演奏するうち、星勝がリード・ヴォーカルを取り鈴木ヒロミツがMCを挟むコミカルなブルース・ロック的作風が評判になりレコード化される。グループサウンズ(GS)ブーム後期で、欧米ロックを追求したモップスは、鈴木ヒロミツと星勝の個性に負う部分が大きく、アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は、事務所社長・堀威夫の意表作為を超えていた[注 12]。その後も阿波踊りを取り入れたハード・ロック・チューン「御意見無用」等、高い音楽性を誇ったが、一方「月光仮面」はバンドの知名度を高めつつも、コミックバンドのイメージが付き纏う結果となった。
世界的なガレージロック・コンピレーションアルバム「Nuggets」シリーズの「ナゲッツII:オリジナル・アーティファクツ・フロム・ザ・ブリティッシュ・エンパイア・アンド・ビヨンド、1964-1969[Disc4]」の5曲目に、ザ・モップスの「アイ・アム・ジャスト・ア・モップス」が収録されている。 モップスは、後年国内ではグループ・サウンズ、海外からはサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックの分野から再評価された。しかし、70年代初期において「日本のロック・バンド」として重要な存在[注 13]だったという点は、歴史上現在も見過されたまま経過している。
ディスコグラフィー
編集シングル
編集枚 | 発売日 | タイトル | 収録曲 | 規格品番 |
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日本ビクター | ||||
1st | 1967年11月10日 | 朝まで待てない |
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VP-1 |
2nd | 1968年3月5日 | ベラよ急げ | VP-5 | |
3rd | 1968年8月5日 | お前のすべてを |
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VP-10 |
東芝音楽工業 / EXPRESS | ||||
4th | 1969年11月10日 | 眠り給えイエス | EP-1190 | |
東芝音楽工業 / LIBERTY | ||||
5th | 1970年5月5日 | ジェニ・ジェニ'70 |
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LP-1203 |
6th | 1970年8月25日 | 朝日のあたる家 |
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LP-1206 |
7th | 1971年1月25日 | 御意見無用 |
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LP-1219 |
8th | 1971年3月25日 | 月光仮面 |
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LTP-2417 |
9th | 1971年9月25日 | 森の石松 |
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LTP-2531 |
10th | 1972年2月5日 | なむまいだあ─河内音頭より─ | LTP-2603 | |
11th | 1972年5月5日 | 雨 |
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LTP-2666 |
12th | 1972年7月5日 | たどりついたらいつも雨ふり | LTP-2695 | |
13th | 1972年11月20日 | フーズ・フー・イン・マイ・ライフタイム〜人生の香り |
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LTP-2761 |
14th | 1972年12月20日 | 御用牙 |
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LTP-2783 |
15th | 1973年1月3日 | 気楽に行こう |
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LTP-2784 |
16th | 1973年3月5日 | 晴れ時々にわか雨 |
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LTP-2784 |
東芝EMI / LIBERTY | ||||
17th | 1973年12月1日 | あかずの踏切り |
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LTP-2950 |
アルバム
編集オリジナルアルバム
編集枚 | 発売日 | タイトル | 備考 | 規格品番 |
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日本ビクター | ||||
1st | 1968年4月 | サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン | 1978年に装丁変更で再発売(「あの日の若者ザ・モップス・デビュー・アルバム」) | SJX-8541 |
1996年12月25日 | 「ブラインド・バード」省略。 | PLP-7727 | ||
2014年4月30日 | 「ブラインド・バード」を含む14曲収録。 | VICL-64159 | ||
東芝音楽工業 / LIBERTY | ||||
2nd | 1970年6月5日 | ロックンロール'70 | LPC-8018 | |
3rd | 1971年5月5日 | 御意見無用(いいじゃないか) | LTP-9025 | |
4th | 1972年5月5日 | 雨/モップス'72 | LTP-9055 | |
5th | 1972年7月5日 | モップスと16人の仲間 | LTP-9059 |
ベストアルバム
編集枚 | 発売日 | タイトル | 備考 | 規格品番 |
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東芝音楽工業 / LIBERTY | ||||
1st | 1973年6月5日 | モップス1969〜1973 | LTP-9076 | |
2nd | 1973年10月25日 | ラブ・ジェネレーション/モップス・ゴールデン・ディスク | LTP-7731~2 | |
東芝EMI / LIBERTY | ||||
3rd | 1975年 | GS オリジナル・ストック5 | LTP-60157 | |
ビクターエンタテインメント | ||||
4th | 1989年6月7日 | ザ・モップスVINTAGE COLLECTION | 「ブラインド・バード」は省かれている。 | VDR-28017 |
東芝EMI / EXPRESS | ||||
5th | 1989年7月12日 | ビッグ・アーティスト・ベスト・コレクション モップス | CT25-9036 | |
6th | 2001年5月23日 | 2001 millennium+1 BEST | TOCT-10759 | |
7th | 2005年8月24日 | NEW BEST 1500 モップス | TOCT-11055 |
ライヴアルバム
編集枚 | 発売日 | タイトル | 備考 | 規格品番 |
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東芝EMI / EXPRESS | ||||
1st | 1971年10月5日 | 雷舞 | 1971年7月11日、大阪・中ノ島公会堂でのライヴ実況盤。 | LTP-9043 |
2nd | 1974年7月5日 | EXIT | 解散公演の実況、1971年に解散したズー・ニー・ヴーの桐谷浩史(キーボード)が参加している。 | LTP-85014 |
オムニバス
編集- ロックンロール・ジャム'70
- S.O.S.コンサート〜フォークとロックの大合同演奏会・渋谷公会堂における実況盤 (1971年4月・東芝音楽工業 ETP-7512~3) 2曲収録「ザ・タウン・ザット・アイ・ウォズ・ボーン」「御意見無用(いいじゃないか)」
タイアップ曲
編集楽曲 | タイアップ | 収録作品 |
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御用牙 (“牙”のテーマ) | 勝プロ 東宝配給『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』主題歌 | シングル「御用牙」 |
すずき・ひろみつの気楽に行こう | モービル石油 CMソング | シングル「気楽に行こう」 |
その他
編集映画出演
編集- 「ベラよ急げ」とタイトル不曲の演奏シーン出演(映画用のオリジナル収録)、
- 劇中にて「Participation (参加)」を演奏(レコード音源)。また、和田アキ子の「ボーイ・アンド・ガール」を伴奏。
- 斬り込み(1970年 日活)
- 劇中にて「アイ・アム・ジャスト・ア・モップス」を演奏。
- モップス役で出演。「御意見無用」をトラックの上で演奏(メンバーではない付き人の一人がパーカッションとして加わっているがレコード音源)。
- モップス役で出演。
ドラマ出演
編集- 劇中にて「森の石松」「御意見無用」を演奏。
脚注
編集注釈
編集- ^ 現役時代スポークスマンとして、解散後回想コメントのほとんどを代弁している。
- ^ 各自が自由に着飾る傾向はブーム退潮の1968年末以降は一般的になり米国風カジュアルな傾向が目立った。
- ^ LSDは不使用、バナナの皮を粉末にした擬似薬(「バナナの皮には幻覚作用成分がある」という流布デマが存在した。ドノヴァンのメロー・イエローの一節はこのデマを皮肉ったもの)などで「トリップ」を真似た。
- ^ シングル盤に長らく残った表記で、一例「歌と演奏:ローリング・ストーンズ」はこの名残り。
- ^ 相互の配給契約からザ・スパイダースなど、アメリカやペルーなどで現地フィリップス・レコードの国内盤が発売された。
- ^ 日本ビクターからモップス、ザ・ダイナマイツなどを送り出した事にすぎやまこういちは、1986年頃に「(グレシャムの法則に例えて)レコード会社が謀ったグループサウンズブームを終わらせる駆逐行為だった。(大意略記)」とコメントを残している。戦前からの大物楽曲作家たちが分業体制に発言力を持ち、レコード会社ではビートルズブームを経たグループサウンズブームから音楽マーケットの急速な環境変化に柔軟な対応を迫られた時代だった。モップスとは契約上の問題点から対立が大きかったが、グループサウンズブームで台頭する自作オリジナル曲を持つバンドやフォークブームのソロ歌手たちには商機を逃せず、外国曲カヴァー曲と併せたシングル盤発売から分業制に配慮を見せていた。翌年日本ビクターブランドからレーベル独自契約の神戸で活動するローカルグループでブルース・ロックに傾倒し外国曲カバーを含むサイケデリック、荒削りガレージ音楽のザ・ヘルプフル・ソウルを送り出している[4]。
- ^ 担当マネージャーの川瀬泰雄が数社へ売り込み、東芝音工ディレクター高嶋弘之との合意で決まった。
- ^ 東芝のリバティ・レーベル部門ディレクター安海勲が担当し次作からリバティ・レーベルに移った。安海は星勝の声を気に入りA面をフィーチャリング星まさるの「眠り給えイエス」と鈴木ヒロミツの「週末の喪章」として制作した。
- ^ 1971年の「雨」(発売は1972年5月)は星勝にとって初のフル・バンド・オーケストラのアレンジとなった。クニ河内からの知遇を得、借りた各楽器の音域表を参考に編成している。
- ^ 同級生同士で結成した前身グループのチェックメイツに中途加入した年長者鈴木ヒロミツとの確執が存在し、活動末期には音楽家として日々成長を遂げていた星勝は鈴木ヒロミツの歌唱スタイルを身につけそっくりに歌い、またバンド外で活動するなど他メンバーとは音楽才能格差は否めない状態になっていた。
- ^ 共演することが多かったフィフィ・ザ・フリーのフルート奏者をゲストにトラフィックをカヴァー演奏することもあった。フィフィ・ザ・フリーもジョン・メイオールをカヴァーで取り上げている。
- ^ 同時代で内田裕也とザ・フラワーズのアルバム『チャレンジ!』と類似点が多い。内田裕也が全采配を振ったこのアルバムと異なり、楽曲作者や制作スタッフを交え作り上げたこと、モップスの演奏独自性を尊重し楽器の音色も多様でより完成された作品となった。
- ^ 日本語ロック論争参照
- ^ 1980年代に、海外からモップスを再評価した音楽マニア達は英米60年代のガレージ・ミュージック再評価を終えた主にファズ・ギターファンのレコード・コレクターだった。同時期、国内でグループ・サウンズを研究する黒沢進や音楽評論家をはじめ一般マニアはB面曲で知名度も低く、中古購入から収録シングル盤は入手容易でモップス他楽曲ほど注目していなかった。「ブラインド・バード」が海外で"Please_Kill_Me"として人気になっている状況を日本のマニア達多くが認知したのは90年代以降だった。
出典
編集参考文献
編集- 黒沢進『日本ロック紀GS編 コンプリート』シンコー・ミュージック、2007年
- 柴田陽平『グループ・サウンズ最高!!―ジャパニーズ・グラフィティ'60s』ブレーン出版 ASIN: B000J7Q530 1981年9月
- 雑誌『ロック画報』
関連項目
編集外部リンク
編集- UNIVERSAL MUSIC JAPANによるページ