アンドレイ・ヴォロニン
アンドレイ・ヴォロニン(アンドリー・ヴォローニン、ウクライナ語: Андрій Воронін, 1979年7月21日 - )は、ウクライナ出身の元サッカー選手。ポジションはFW, またはMF。
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
2019年 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ヴォローナ | |||||
ラテン文字 | Andriy VORONIN | |||||
ウクライナ語 | Андрій Воронін | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ウクライナ | |||||
生年月日 | 1979年7月21日(45歳) | |||||
出身地 |
ソビエト連邦 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国オデーサ州オデーサ | |||||
身長 | 179 cm | |||||
体重 | 77 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF、ST、WG)/MF (OH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
チョルノモレツ・オデッサ | ||||||
1995-1997 | ボルシアMG | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1997-2000 | ボルシアMG | 9 | (1) | |||
2000-2003 | マインツ | 75 | (29) | |||
2003-2004 | ケルン | 19 | (4) | |||
2004-2007 | レヴァークーゼン | 92 | (32) | |||
2007-2010 | リヴァプール | 27 | (5) | |||
2008-2009 | → ヘルタ・ベルリン (loan) | 27 | (11) | |||
2010-2014 | ディナモ・モスクワ | 80 | (22) | |||
2012-2013 | → フォルトゥナ・デュッセルドルフ (loan) | 10 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2002-2012 | ウクライナ | 74 | (8) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年4月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ウクライナ代表ではアンドレイ・シェフチェンコの良き相方として活躍していた。長めのポニーテールがトレードマーク。姓は「烏」を意味する「ヴォローナ」から生まれた名前であるが、このことから逆にヴォロニンは「ヴォローナ」の愛称で呼ばれる。
経歴
編集選手時代
編集FCチョルノモレツ・オデッサのユースに所属していたヴォロニンは、1995年にブンデスリーガ、ボルシア・メンヒェングラートバッハへと移籍し、1997年のバイエルン・ミュンヘン戦でデビューを果たす。しかし、そこでも出場のほとんどがユースチームであり、トップチームでの出場は5年間で一桁しかなく、1得点のみしか奪えなかった。その後、当時ドイツ2部リーグに所属していた1.FSVマインツ05へと活躍の場を移す。そこでストライカーとしての才能を発揮し、3年目で20ゴールを挙げ得点王に輝く。また、2002年1月にはウクライナ代表にも呼ばれ、3月のルーマニア代表との親善試合で代表デビューも果たした。VfBシュトゥットガルトやボローニャFCなどのクラブがヴォロニンの代理人に接触し、マインツも契約延長の交渉をした。しかし、マインツは同年ドイツ1部に昇格することができず、結局ヴォロニンは1.FCケルンへと移籍する。そこで1年間プレーした後、バイエル・レヴァークーゼンへと移った。
レヴァークーゼンは、ケルン時代からヴォロニンに興味を示しており、ケルンと対戦し、1ゴール1アシストをしたヴォロニンに「ケルンで本当に素晴らしい唯一の選手」(the only true good footballer at Köln) と評した。また、『ビルト』紙に「ケルンの唯一のストライカーは、レバークーゼンの全てのスターよりも危険だ」と書かれた(この試合結果は2-2でドロー)。また、ワールドカップ ドイツ大会では初のベスト8進出を果たす。2006-07シーズンの終わりにレバークーゼンから契約延長のオファーを断ったヴォロニンには、フランス、スペイン、イタリア、スコットランドからオファーが届いた。
2007年2月26日、リヴァプールFCはフリーでヴォロニンを4年契約で獲得し、夏にチームに加わることを発表した。8月11日のアストン・ヴィラFC戦で78分から出場し、リヴァプールデビューした。そして、15日のUEFAチャンピオンズリーグトゥールーズFC戦でリヴァプール初ゴールを挙げる。そして、25日に行われたサンダーランドAFC戦でプレミア初ゴールを決めた。しかし、2008年1月25日にトレーニング中に足首を怪我してしまう。そして、レンタルでヘルタ・ベルリンへと1年間の移籍に合意した。ベルリンではまずまずの成績を残し、2009-10シーズンにリヴァプールに復帰、しかしながら出場機会は少なく、2010年1月にFCディナモ・モスクワへの移籍が合意に至っていることが発表された。
2015年2月、怪我のため現役引退を表明した[1]。
指導者時代
編集引退後は指導者に転身。2020年からは、現役時代の最後にプレーしたFCディナモ・モスクワでアシスタントコーチを務めていたが、祖国が2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けた事情で退団した[2]。
脚注
編集- ^ 元ウクライナ代表の名手、ヴォロニンが現役引退Goal 2015年2月11日
- ^ “「故郷を爆撃する国でこれ以上は…」元ウクライナ代表ヴォロニン氏、コーチ務めるディナモ・モスクワと契約解消”. goal.com (2022年3月2日). 2022年3月5日閲覧。