田畑氏
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田畑氏 (笠利氏) | |
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(まる に いちもんじ) | |
本姓 |
第二尚氏[独自研究?] 第一尚氏[独自研究?] 舜天王統[独自研究?] |
家祖 | 笠利為春(源為春・笠為春・龍為春) |
種別 | 琉球国王統[独自研究?] |
主な根拠地 | 現・鹿児島県奄美大島 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
奄美の田畑氏本家筋は、奄美大島を起源とする。
本祖である「為春」(文明14年(1482年) - 天文11年(1542年))は琉球の尚稷王(しょう・しょくおう、永享6年(1434年)没)の孫とされ、『校正鹿児島外史』等では、笠利氏は源為朝の嫡流(嫡男・為頼の裔孫)であるとされている。
琉球王国初代国王舜天王統の末裔である、源家の可能性が非常に高い家系である。[独自研究?]
尚、第一尚氏及び第二尚氏自体が、琉球のいずれかの王統繋がりである。[独自研究?]
田畑氏
元来、奄美大島群島は名字がなかった土地柄であったために、湾名である笠利湾から笠(リュウ)、龍郷湾と龍郷町から龍(リュウ)の一文字を取って初代龍家の龍氏の線も確実であるとされる。別ページより転載の上追記[独自研究?]
“丸に一文字紋”の他に複数の家紋が持てる家柄であるため、龍郷町には“丸に五三桐紋”の田畑家の墓がある[独自研究?]
鹿児島の田畑氏(たばたし)は、江戸時代の薩摩藩士。 かつて琉球に帰属した鹿児島・奄美大島が薩摩藩の直轄領になった、後にも代々奄美の間切大屋子(地頭職)を任された。享保11年(1726年)には長年の藩政への貢献の実績等が評価され、田畑姓を薩摩藩主より与えられる。[独自研究?]
元は笠利(かさり)氏を名乗っていた。[独自研究?]
笠利為春は、源為春ではないかという説が有力視されており、本拠地の地名の龍郷湾の龍郷からとって龍(リュウ)為春、もしくは笠利湾の笠(リュウ)為春ではないかとされる。[独自研究?] 奄美大島の本家の田畑家歴代の墓地(弁財天墓地)があり「龍愛子」の文字がある。[独自研究?]
笠利氏
笠利氏家譜によると、本祖の笠利為春(かさり ためはる/文明14年(1482年) - 天文11年(1542年))は、琉球の第二尚氏初代尚円王の父・尚稷(しょうしょく)の孫であるとされ、文亀4年/永正元年(1504年)に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋職であった。王命により中国に渡り、その地で天文11年(1542年)に亡くなったとされる。
つまり、笠利氏本祖の為春自体、琉球王国の第二尚氏初代尚円王の父尚稷の孫であるために笠利氏、現・田畑氏も琉球王統を継ぐ子孫である。
|神奈川県内にある、鶴岡八幡宮には琉球王家の家紋である左三巴紋が使用されているが、境内に現存している立看板に「歌あ波れ、その人 あ波連。実朝忌」(ウタアハレ ソノヒト アハレン サネトモ忌)とある。(原文そのまま) 歌 阿波れ(うたあはれ)その人阿波連(そのひとあはれ → ではなく、あはれん、あわれむ) 琉球方言では発音から「〜の」を「ぬ」と読むなど、「ん」を「む」と読む事があるため、“哀れ”であると、読み解釈するよりも、その人を“哀れむ”という配慮による念の心情を詠ったニュアンスの方をより強く含んだ解釈の方が正しいと思われる。
忌を諱(忌み名)、忌むを為(イム)、笠利家は例外なく名前に為○とつくため、実朝と為朝が同一人物であるかどうか、実朝の諱とみなし、為朝かどうか、源実朝に詠ったものであるか、また実朝本人が詠んだ句であるかどうかは年数を鑑みると非常に慎重に判断せねばならないために不明な部分が残るが、詠そのものの漢字の使い方や言葉、発音の使い方から、琉球の詠と言葉使いである事は確実。[独自研究?]
沖縄県内に、阿波連(アハレン)ビーチが今も現存する事と、「安波節アハブシ」と呼ばれる、伝統的な琉球民謡は今も現代に受け継がれている。[独自研究?]
|2021年(令和3年)の時点で、いまだ現代に子孫が受け継がれている王統である。
また『校正鹿児島外史』等によれば、笠利氏は源為朝(頼朝・義経らの叔父)の嫡男・為頼(母:阿多忠景の娘)の子孫であるとされている[1]。 なお、為頼の弟が舜天王統初代・舜天王(尊敦)とされている事からこれとつなぐ系図も存在する。これは琉球国の正史『中山世鑑』にある伝承と関連するが、一部は異なる。
{{独自研究範囲|琉球に限らず、始祖を特定する難しさや系譜の間が空いてる様子が田畑家(笠利家)の家系図からは見て取れる理由に1947年(昭和20年)奄美大島群島市街地90%が焼失した名瀬市大空襲がある。琉球王府時代に発行された半永住許可証は現在においても現存する。現物あり
第2代当主・為充(ためみつ)は、瀬戸内東間切首里大屋職に、第3代・為明(ためあき)は、笠利間切の首里大屋職に琉球王から任命され(永禄11年(1568年))、その際の任命書が現存する。
家譜の上で4代以降は嬉姓喜志統親方系譜との類似点が指摘されている。琉球支配時代(那覇世)、 笠利家は琉球王府勤めを経て奄美大島に赴任し、大家子として任命され現地有力者の娘と婚姻するなどし在地化していたとされている。
第5代・為転(ためてん)の時、慶長14年(1609年)に薩摩藩による琉球侵攻を受けその結果として蔵入地(直轄領)となり、薩摩の支配下に組み込まれたが、
笠利氏は家督を奪われることなく存続する。
嫡男の為季(ためすえ、7・9代当主)が大坂冬の陣・夏の陣に参戦し、為成(ためなり、8代当主)が小姓として参勤交代に供奉した記録が現存している(初代藩主・島津忠恒の時代)。
為季(7代・9代)、為成(8代)が当主であった頃に、島津忠恒が初代藩主であった事から、田畑家の歴史は鹿児島の島津家に比べて遥に古い歴史を有する事が分かる。 島津家は、田畑氏の名前の一文字である田を模したものを島津家の家紋とする事を許されたのではないかと推測される。
その後も本領への参勤(上国)や一族の一定期間の薩摩在住が義務付けられ、第11代当主・為寿(ためじゅ)が元禄5年(1692年)に第3代藩主・島津綱貴を訪問した直後に家老・新納久行が送付した丁重な礼状が現存している。
残存する系図等によると、本祖の為春以降、江戸時代の終盤まで例外なく諱が「為〇」となっており、前述した源為朝とつながりが重視されたことが想像されると共に、400年以上も前から存在する墓石の家紋は、清和源氏系の武家に多く見られるデザイン「丸に一文字」が使われている。
笠利家系譜
田畑・龍氏として
薩摩藩の統治下も特別な家格を保ち続け、享保11年(1726年)に藩政への長年の貢献(砂糖増産を主とした新田開発)により、第12代当主・佐文仁為辰(さぶんに ためたつ)が、薩摩藩主より「田畑」姓を与えられ、代々外城衆中格(後の郷士格)となる。
その時点において奄美で公に名字を名乗れたのは田畑氏のみであり、天明3年(1783年)以降から田畑以外にも郷士格が誕生しているが、 新田開発を理由とするのは田畑佐文仁のみであった。
田畑氏の本家筋方に、龍為勝(佐文仁)、為春から数えて17代目当主。下記に奄美の先駆者 田畑佐文仁の表記あり 天明5年(1785年)に本領との差別化を目的とする政策により(第8代藩主・島津重豪の時代)に一字姓への改姓が求められ、本拠地の龍郷(たつごう)の一字をとって龍(りゅう)に改姓する。 ちなみに、西郷隆盛が奄美大島で暮らした時代に妻となった愛加那は、田畑家(龍家)の分家筋の娘(龍愛子)である。 奄美の本家筋等は明治になってから田畑氏に復姓するが、それ以前に本領に移住していた家系等は、龍への改姓後も田畑氏のままであったと考えられている。
薩摩藩士・田畑氏
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享保11年(1726年)以降、本領に移住・定住した分家筋等は「田畑」を苗字とし続け、本家が「龍」に改めた以降も名字を改めなかったとされているが、その詳細は不明であり、異なる経緯での田畑姓の発生も考えられる。
ただ、田畑姓が藩主からの賜姓であるため、鹿児島において奄美に由来しない田畑姓が江戸時代に存在していたとは想像しがたい。
脚注
参考文献
- 伊加倉俊貞『国立国会図書館デジタルコレクション 校正鹿児島外史』 [要文献特定詳細情報]、清弘堂、1885年9月。 NCID BA34177729 。
- 大江修造『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり : 薩摩藩隠された金脈』アスキー・メディアワークス〈アスキー新書, 143〉、2010年3月。ISBN 9784048684101。
- 大島新聞 (1977年7月). “奄美の先駆者 田畑佐分仁 上”. 大島新聞: pp. [要文献特定詳細情報]
- 大島新聞 (1977年7月). “奄美の先駆者 田畑佐分仁 下”. 大島新聞: pp. [要文献特定詳細情報]
- 潮田聡; 木原三郎『西郷のアンゴ(島妻) : 愛加那』みずうみ書房、1990年3月。ISBN 483801547X。
- 南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室 編『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年9月。 NCID BN01086630。
- 『笠利氏家譜』[要文献特定詳細情報]
- 『中山世鑑』