三河島町

日本の東京府北豊島郡にあった町

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三河島町(みかわしままち)とは、東京府北豊島郡にかつて存在した町である。現在の荒川区の中部に位置していた。

三河島町
廃止日 1932年10月1日
廃止理由 編入合併
南千住町日暮里町三河島町尾久町東京市
現在の自治体 荒川区
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 東京府
北豊島郡
総人口 79,924
(1930年10月1日)
隣接自治体 北豊島郡尾久町、日暮里町、南千住町
南足立郡千住町
三河島町役場
所在地 東京府北豊島郡三河島町三河島
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歴史

「三河島」という地名の由来には、

  • 徳川家康の関東入部の折、三河国から従ってきた人が知行したため[1]
  • 三つの川(中川古利根川荒川)に囲まれた中洲状の土地であったため[1]

など諸説ある。

戦国時代の『北条氏所領役帳』にはすでに「三河ヶ島」の地名が見られる(したがって、徳川家康にまつわる由来説は成立しないことになる)[1]

沿革

  • 1889年(明治22年)5月1日 - 町村制の施行に伴い、町屋村の全域と、以下の3村の各一部が合併して三河島村が発足(カッコ内は残部の編入先)。
  • 1920年(大正9年)2月11日 - 三河島村が町制施行して三河島町となる。
  • 1932年(昭和7年)10月1日 - 北豊島郡の全域が東京市に編入され、三河島町の区域は荒川区となる。

「三河島」の地名のその後

「三河島町」は東京市(のち東京都)荒川区の行政区画()となった。

第二次世界大戦後の1960年代、三河島町の地名は大部分が「荒川」に、その他東尾久東日暮里西日暮里に編入されて消滅した。21世紀初頭の現在は、常磐線三河島駅京成電鉄新三河島駅金融機関の支店名[2]以外にその名をほとんどとどめていない。なお「荒川」への変更は、三河島が荒川区の行政の中心であったためとされる[3]

「三河島」という地名の消滅について、1962年(昭和37年)5月3日に発生した三河島事故のイメージを払拭する思惑があったとする説もあるが、地図研究家の今尾恵介は俗説として退けている。「三河島町」の大部分が荒川に変更されたのは1961年10月31日(事故の半年前)である。わずかな面積が数年間「三河島町」として残ったが、道路からはみ出るなどしたわずかな面積であって、もともと他町名への分割編入が意図されたのであろうという。1964年7月1日に東尾久の分割編入が行われたあと、残った部分が1966年3月1日に東日暮里西日暮里に編入され、行政地名としての「三河島」が消滅した[4]

人口

  • 1920年  21,623
  • 1925年  59,252
  • 1930年  80,217


交通

鉄道

都電荒川線の荒川一中前停留場は、三河島町が存在した当時は存在しなかった。

産業

三河島町であった当時は農業が盛んであり、特に三河島菜という青菜が特産で小松川村小松菜と比肩する人気を誇った。しかし次第に宅地化が進み農地は激減し、三河島菜は一部の品種が「芭蕉菜」の名前で現在でも仙台地方において生産されているものの、三河島地域での生産はなくなってしまった。

現在の地名

荒川町屋(六丁目、七丁目の一部を除く)(いずれも大体の範囲)

  1. ^ a b c 荒川の由来”. 荒川ゆうネットアーカイブ. 荒川区. 2020年7月10日閲覧。
  2. ^ 現在は三菱UFJ銀行(旧・三和銀行)などが同地に三河島支店を設置している。尚、あさひ銀行大和銀行(現・りそな銀行)、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)もかつては三河島支店を設置していたが、合併後に行われた移転・統廃合で現在は両行に「三河島」を冠した支店は存在しない。きらぼし銀行(旧・東京都民銀行)三河島支店も御徒町支店内に移転している。
  3. ^ 1932年10月に東京市に合併して新設された区名は、原則として区役所所在地の旧町村名を付けることになっていたため。荒川区役所は三河島町に設置された。
  4. ^ 今尾恵介『地名崩壊』(角川書店(角川新書)、2019年)pp.165-166。過去の著書で安易に俗説を引いてしまったとして反省を記している。

関連項目