朝日平吾
朝日 平吾(あさひ へいご、1890年(明治23年)7月 - 1921年(大正10年)9月28日)は、日本の政治活動家・右翼・テロリスト。明治の実業家・安田善次郎を暗殺した犯人として知られる。
あさひ へいご 朝日 平吾 | |
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生誕 |
1890年(明治23年)7月 日本 佐賀県嬉野町 |
死没 |
1921年(大正10年)9月28日 日本 神奈川県大磯町 |
人物
1890年(明治23年)7月、佐賀県嬉野村に生まれる。長崎県佐世保市に移住。1910年(明治43年)に佐賀の第18師団第55連隊第6中隊に入隊し、1914年(大正3年)の第一次世界大戦に衛生兵として山東半島で従軍した。
軍での凱旋帰国の後、東京で生活。ここで、馬賊の薄益三(うすき・ますぞう)と知り合い、1916年(大正5年)満州に渡った。しかし、現地での馬賊隊との連帯がうまくいかず、中国東北部や朝鮮半島を転々とし大陸浪人の身となった。1919年(大正8年)、失意の内に帰国。平民青年党、労働ホテル、神州義団(右翼団体)等の設立を計画するも挫折。職も転々とし、行く先々で衝突を起こす日々を繰り返し、社会への不満を募らせていった。
1921年(大正10年)、最後の事業と決めて貧民救済事業に乗り出した。渋沢栄一の事務所に事業設立のための寄付金を要求し、断られると切腹しようとしかけ、寄付金百円をせしめる事に成功した。だが、この事業も途中で頓挫を余儀なくされた。ちょうどその折、前年3月の戦後恐慌で自身は株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めて、まんまと2,000万円の利益を得たという黒い噂を耳にした。この事が安田暗殺を企てるきっかけとなった。
1921年(大正10年)9月27日、安田の住む神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に、弁護士・風間力衛[1]を名乗り、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、面会を断られた。翌9月28日、門前で4時間ほど粘ったところ、面会が許された。そして午前9時20分ごろ、自宅の応接間(十二畳の部屋)で所持していた刃渡り八寸(約24cm)の短刀で安田を刺殺した。家政婦が警察に通報している間に、朝日はその場で、所持していた剃刀で咽喉部を切り自殺した。享年31。生涯独身だった。
朝日は犯行の直前に投宿していた長生館の女将宛てに『宿賃も支払わずにこんな事になったが、非常に相済まない』との、また佐賀県の父親には『・・・非常な罪を犯す不幸を許して・・・』との手紙を折鞄の中に入れていた。また斬奸状と遺書も持参しており、斬奸状には、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」と記されてあったという。
朝日の葬儀には、全国の労働組合や支援者が・・・安田に負けない葬儀をしよう・・・と駆け付け、盛大な物になった。また、当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したため[2]、事件の37日後に起きた原敬暗殺事件を誘発したと言われている[3]。墓は東京都文京区護国寺近くの西信寺にある[4]。
柔道初段の腕前だった。
登場する作品
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク
- 安田善次郎翁暗殺事件
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『朝日平吾』 - コトバンク