大木喬任

日本の武士、政治家

これはこのページの過去の版です。曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による 2015年3月29日 (日) 10:08個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Temp調整)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日天保3年3月23日)– 1899年明治32年)6月26日)は、日本佐賀藩武士政治家通称を幡六[要説明]、民平[要説明]勲等勲一等爵位伯爵

大木 喬任
大木喬任
生年月日 1832年4月23日天保3年3月23日
出生地 肥前国佐賀
没年月日 1899年6月26日(満67歳没)
死没地 大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府東京市
出身校 弘道館
称号 勲一等旭日桐花大綬章
伯爵

在任期間 1892年8月8日 - 1893年3月1日

日本の旗 第4代 文部大臣
内閣 第1次松方内閣
在任期間 1891年6月1日 - 1892年8月8日

日本の旗 臨時 司法大臣
内閣 第1次山縣内閣
在任期間 1890年12月25日 - 1891年2月7日

内閣 第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間 1889年12月24日 - 1891年6月1日

日本の旗 第2代 枢密院議長
在任期間 1889年12月24日 - 1891年6月1日

その他の職歴
日本の旗 第5代 元老院議長
1885年12月22日 - 1889年12月24日)
日本の旗 第7代 文部卿
1883年12月12日 - 1885年12月22日)
日本の旗 第4代 司法卿
1881年10月21日 - 1883年12月12日)
日本の旗 第2代 元老院議長
1880年2月28日 - 1881年10月21日)
日本の旗 第2代 司法卿
1873年10月25日 - 1880年2月28日)
日本の旗 第2代 教部卿
1871年11月25日(明治5年10月25日) - 1873年4月19日
日本の旗 初代 文部卿
1871年9月12日(明治4年7月28日) - 1873年4月19日)
日本の旗 第3代 民部卿
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 1871年9月11日(明治4年7月27日))
東京都の旗 第2代 東京府知事
1869年1月16日(明治元年12月4日) - 1869年8月22日(明治2年7月15日))
テンプレートを表示

経歴

出自

肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として生まれる。

幕末

藩校の弘道館で学び、1850年嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽義祭同盟結成に参加。後に江藤新平大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。

明治新政府

1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議司法卿1876年(明治9年)の神風連の乱萩の乱の事後処理に当たった。

戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。

1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。1888年(明治21年)に枢密顧問官1892年(明治25年)に枢密院議長再任。

1899年(明治32年)に死去、享年67。

評価

教育制度や法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の1人に数えられている。

家族

大木氏筑後国蒲池氏の一族で、筑後宇都宮氏宇都宮懐久の次男の資綱の嫡子大木政長を祖とし、資綱の兄の蒲池久憲の後裔の蒲池鎮漣の重臣で、のちに鍋島直茂に仕えた大木統光の子孫にあたる。

  • 長男:大木遠吉(原・高橋内閣の司法大臣、加藤内閣の鉄道大臣を歴任)
  • 娘(栃木の農家に嫁ぐ[1]
  • 娘:岡崎えん(喬任と芸妓の子。銀座の小料理屋の女将となり[2]、死後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が執筆された)

資産

沼津磯部温泉に別荘を所有した。

栄典

脚注

  1. ^ 大木喬任夫人『明治大臣の夫人』岩崎徂堂 (大学館, 1903)
  2. ^ 岡崎えん日本人名大辞典
  3. ^ 『官報』第307号、「叙任及辞令」1884年07月08日。

関連文献

  • 大木遠吉編 『紀念』 1904年5月序
  • 『明治大学刑事博物館目録 第2号』 明治大学刑事博物館委員会、1952年8月
    • 『明治大学刑事博物館目録 第4号』 明治大学刑事博物館委員会、1953年8月
  • 田中艸太郎、常安弘通著 『大木喬任 辰野金吾』 佐賀県青少年育成県民会議〈郷土史に輝く人びと〉、1971年3月
  • 島内嘉市著 『年譜考 大木喬任』 アビアランス工房、2002年7月、ISBN 490128410X
  • 西川誠 「大木喬任」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415
  • 重松優 「大木喬任伝記史料「談話筆記」について」(『ソシオサイエンス』第12号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2006年3月、NAID 120000792718
  • 佐々木隆 「「大木喬任関係文書」所収司法・検察関係者書翰翻刻」(『参考書誌研究』第66号、国立国会図書館、2007年3月NAID 40015326636
  • 重松優 「『大木喬任伯意見雑記』をめぐって」(『社学研論集』第10号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2007年9月、NAID 120002928913
  • 星原大輔 「幕末明治期の大木喬任日記」(『財団法人鍋島報效会研究助成研究報告書』第4号、財団法人鍋島報效会、2009年10月)
  • 重松優著 『大木喬任』 佐賀県立佐賀城本丸歴史館、2012年2月、ISBN 9784905172055
  • 大木喬任」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一」) - アジア歴史資料センター Ref. A06051166700

関連項目

外部リンク

公職
先代
烏丸光徳
  東京府知事
第2代:1868年1月16日 - 1869年8月22日
次代
壬生基脩
先代
伊達宗城
  民部卿
第3代:1870年7月10日 - 1871年9月11日
次代
(廃止)
先代
(創設)
福岡孝弟
  文部卿
初代:1871年9月12日 - 1873年4月19日
第7代:1883年4月7日 - 1885年12月12日
次代
木戸孝允
森有礼(文部大臣)
先代
嵯峨実愛
  教部卿
第2代:1872 - 1873
次代
(廃止)
先代
有栖川宮熾仁親王
佐野常民
  元老院議長
第2代:1880年2月28日 - 1881年10月21日
第5代:1885年12月22日 - 1888年4月30日
次代
寺島宗則
柳原前光
先代
伊藤博文
伊藤博文
  枢密院議長
第2代:1889年12月24日 - 1891年6月1日
第4代:1892年8月8日 - 1893年3月11日
次代
伊藤博文
山縣有朋
先代
芳川顕正
  文部大臣
第4代:1891年6月1日 - 1892年8月8日
次代
河野敏鎌