東亜経済調査局
東亜経済調査局(とうあけいざいちょうさきょく)は、第二次世界大戦以前に存在していた満鉄の調査機関の一つ。「東亜経調」とも呼ばれる。ドイツ語でOstasiatisches Wirtschaftsarchiv zu Tokio、英語ではEast-Asiatic Commercial Intelligence Institute at Tokyo(後にThe East Asiatic Economic Investigation Bureau)。
概要
1908年に満鉄の調査機関の一つとして東京支社の管轄下に設置され、当初は世界経済の調査分析を担当していたが、1920年代以降大川周明によって主宰されるようになると、次第に東南アジア地域の調査研究に活動の重心を移した。1929年から財団法人として満鉄から独立、大川を理事長とした。1939年の満鉄調査部の拡充に伴い再び満鉄に統合され、「大調査部」に属してイスラム世界・東南アジア・オーストラリアを担当地域とする分局となった。回教圏研究所と並ぶ戦時期イスラム研究の中心として、前嶋信次など第二次世界大戦後の代表的な中東研究者・アジア研究者を育てたことでも知られる。
沿革
歴史
東亜経済調査局は、後藤新平の構想に基づき、植民地研究の満鉄調査部、歴史研究の満州朝鮮歴史地理調査部に対し、世界経済の情報収集と分析を担当する機関として東京本社に設立された。
松岡均平時代(1908年-1921年)
この時期は東大教授であった顧問・松岡均平のもと当初の構想に沿った業務が進められた。ヨーロッパの調査機関に範をとりカード式資料分類法が導入、また回教関係稀覯書のコレクションであるモーリツ文庫などヨーロッパ文献の蒐集が進められた。またスタッフは佐野学・波多野鼎・嘉治隆一・岡上守道・伊藤武雄ら新人会関係者から大川周明・笠木良明に至るまで左右の幅広い人材により構成されていた。なお大川の学位論文の基になった「特許植民会社制度に関する研究」はここでの業務の一環として執筆された。
大川周明時代(1921年-1938年)
松岡に代わり局を主宰した大川は、山本条太郎満鉄総裁を説得し1929年に東亜経済調査局を財団法人として独立させ、満鉄からの拠出金からなる基金により運営した。理事長に就任した大川の影響力は強まり、対立した自由主義者は退局・異動を余儀なくされた。このころから東亜経調の業務は次第に東南アジア・西南アジア地域の調査へとシフトするようになった。それは新たに入局した古野清人・馬淵東一・法貴三郎・前嶋信次らによって担われ、成果は『南洋叢書』全5巻(1937年-1939年)、『南洋華僑叢書』(1939年)の刊行としてまとめられた。またこの時期、大川は南方アジアの地域で働く人材の育成を目的とした「付属研究所」を設立、語学・一般教養・日本精神を講じ敗戦までに6期生を送りだした。
「大調査部」時代(1939年-1943年)
大川と松岡洋右総裁との協議により、東亜経調は満鉄に復帰、統合された「大調査部」の中で西南アジア・オーストラリア・南洋の調査を専管する分局となった。これらの地域の事情を一般大衆に伝える啓蒙的な月刊誌として『新亜細亜』が創刊されたのはこの時期であり、坂本徳松ら編輯班が編集を担当した。東亜経調は大連の調査部が行っていた「支那抗戦力調査」などの綜合調査には直接関与しなかったが、太平洋戦争の勃発とともに外部機関からの委託研究が次第に増加、独自に進めていた南洋地域の基礎調査は次第に困難になっていった。
末期(1943年-1945年)
満鉄調査部事件をきっかけとする大調査部の再編・解体に伴って、東亜経調は日本・中国・満州を担当していた東京本社調査室と統合、第一調査課(農業・鉱工業・流通・物量の4班)・第二調査課(経済・法制・社会文化・統計の4班)・第三調査課(印度・西南亜細亜・欧米の3班)の3課に再編成された。しかしほとんど調査機能は失われ、戦災と疎開への対応に時間を追われるまま敗戦に至った。敗戦後、東亜経調は解散となり、その蔵書のほとんどは占領軍により接収された。