回復領
回復領(かいふくりょう、英語: Recovered Territories:Regained Territories、ポーランド語: Ziemie Odzyskane)とは、第二次世界大戦後のポーランド人民共和国当局が、ヤルタ会談によってポーランド領に編入された旧ドイツ領地域(ドイツ側からみた東方領土(Ostgebiete des Deutschen Reiches))を指した用語[1]。民主化後、公式には用いられなくなり[2]、代わりに「西部および北部領土 (ポーランド語: Ziemie Zachodnie i Północne)」という表現が用いられている[2][3]。「西部領土」には、西ポモージェ県(旧ポメラニア[4]およびシュテッティン)、ルブシュ県(旧ノイマルク、Neumark)、オポーレ県とドルヌィ・シロンスク県(旧シレジア、ただし、もともとポーランド領だったシレジア自治県(en:Autonomous Silesian Voivodeship、pl:Autonomiczne województwo śląskie)の部分を除く)などが含まれ、「北部領土」には、グダニスク(旧自由都市ダンツィヒ)、ヴァルミア・マズールィ県[5](旧東プロイセンの南半分)が含まれる。
「回復」という表現が用いられるのは、プロパガンダとして[6]、西部および北部領土は中世のピャスト朝以来ポーランドの分ちがたい一部であったという構図を示し、ポーランド人民共和国がその正当な継承者であることを主張するためであった[1][7][8][9][10]。過去の領有として強調されたのは、西部領土については中世盛期のピャスト朝(960年頃 - 1370年)の、建国時にローマ教会と神聖ローマ皇帝から正式な承認を受けた国境線を含むいくつかの時期における領有であり、北部領土については近世のいくつかの時期におけるポーランドの宗主権(レーエン)であった。東ヨーロッパへのドイツ人の歴史的定住(東方植民)によって、何世紀にもわたりこれらの地域にドイツ人が住んでいたことについては、ドイツの継続的な東方への「侵略」行為の結果に過ぎないとされた(東方への衝動)[9][11][12]。戦後における住民の強制移住は、公式には「本国送還」と呼ばれ[9]、かつてこの地域に存在していたドイツ的文化伝統は、顧みられることなく否定されることになった[13]。
第二次世界大戦後、回復領からは多数のドイツ人が脱出して西方へ去ったが(Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II)、一部のドイツ系住民はそのまま留まっていた。しかし、彼らもやがてほとんどが追放されることになり、代わってポーランド人が他地域からどんどんと入って来たが[14][15][15]、それでもごく少数のドイツ系住民はポーランド国籍を得てドイツ系ポーランド人として一部の地域に残留した。この地域に入ってきたポーランド人の多くは、ポーランド中部や戦時中逃れていた国外から自由意志でやって来ていたが、ポーランド当局は、ウクライナ人など国内の少数民族集団を強制的に分散移住させ(ヴィスワ作戦、Operation Vistula)、また、ソ連に併合された旧ポーランド領東部(Territories of Poland annexed by the Soviet Union)の住民を回復領に「本国送還」して、こうした地域のポーランド化を確かなものにした[14][15][16][17]。
1950年、ドイツ民主共和国 (東ドイツ)がズゴジェレツ条約でオーデル・ナイセ線を正式に国境として承認し、ドイツ連邦共和国 (西ドイツ)も、1970年のワルシャワ条約でこれに同意した。さらに統一後のドイツ連邦共和国も1990年のドイツ・ポーランド国境条約(German-Polish Border Treatyを締結して、オーデル・ナイセ線を国境とすることを再確認している。
地域
「西部領土」を構成するのは、以下の各地方である。
- 西ポモージェ県[18]は、全域が、かつてのポメラニアの東部、東(下)ポメラニア(de:Hinterpommern、en:Farther Pomerania)と、シュチェチン(Szczecin: ドイツ語名、シュテッティン Stettin)周辺の領域にあたる。プロイセン領〜ドイツ領時代のポメラニアは、ポメルン州(1815年 - 1946年)を構成し、第二次世界大戦後のポーランドへの移管直後は当時のシュチェチン県(pl:Województwo szczecińskie、en:Szczecin Voivodeship)がこれを引き継いだ。その後のポーランドの行政区画の変更により、ドイツ領時代のポメルン州の最も東の部分は、ポモージェ県に編入された。
- ルブシュ県は、ほぼ全域がプロイセン領〜ドイツ領時代のブランデンブルク州(de:Provinz Brandenburg、en:Province of Brandenburg)の東部ノイマルク地方(de:Neumark (Landschaft)、en:Neumark)に相当する。県名の「ルブシュ Lubusz」(ドイツ語: Lebuser Land)は、中世の地名の付け方に従って、当時近傍で重要な町であったレブス (Lebus) (ポーランド語: Lubusz) の名を冠したものであるが、レブス自体はオーデル川左岸のドイツ側の町である。
- ドルヌィ・シロンスク県とオポーレ県の大部分と、シロンスク県の一部は、オーデル川〜ナイセ川の東側に位置する、プロイセン領〜ドイツ領時代のシレジア州(de:Provinz Schlesien、en:Province of Silesia)[19]に相当する。なお、ドルヌィ・シロンスク県には、オーデル川の右岸にあるルーサティアの一部も含まれている[20]。
「北部領土」を構成するのは、以下の各地方である。
- ポモージェ県[21]に所属するグダニスク周辺の地域は旧自由都市ダンツィヒである[22]。
- ヴァルミア・マズールィ県、かつてのヴァルミア県とマズールィ県[5]は、プロイセン領〜ドイツ領時代の東プロイセン州の南半分、面積にして3分の2程度に当たる。
プロイセン領〜ドイツ領時代の西プロイセン州は、第一次世界大戦後にその大部分がポーランド領に編入されたが、一部はドイツ側に残っていた(左の図の1および10の地域)。このうち旧自由都市ダンツィヒに隣接する部分は北部領土、残りの部分は西部領土に組み込まれた。
以上のほか、戦後におけるポーランドの行政区画の変更によって、旧ドイツ領土の一部が他の県に帰属する形になっている場所がいろいろある(「回復領と現在の県区分を重ねた地図」を参照)。
ドイツ人強制移住の理由
以下に示すようなさまざまな理由が挙げられている。
- 第二次世界大戦の期間における民族ドイツ人の行為(ナチス・ドイツ占領地域からのポーランド人やチェコ人追放を含む)に対する懲罰措置。同時に民族的に等質な国民国家を建設することにより、戦争に先駆けて発生したような民族対立の芽を摘み取る。また戦中のドイツ人は東方植民地計画 (Generalplan Ost) に則ってドイツ領に併合された旧ポーランド領のポーランド人の財産を奪ったうえで、彼らをドイツの直轄地とされたポーランド総督府領等へ追放、その犠牲の上に特権的な生活を享受した。ワルシャワはポーランド総督府領にあったが、そこにおける各民族の1日当たり平均摂取カロリーはドイツ人1人あたり 2,613 kcalなのに対し、ポーランド人に与えられたのは 669 kcal、ゲットーのユダヤ人に至っては 253 kcalと推定されており、食物の秘密調達なくして生命維持は不可能であった。ただし無許可の食料調達が発覚すれば現場で即座に銃殺された。総督府ではさらにポーランド人を家から追いたて、家族を引き裂き、子供を誘拐し、強制労働を課し、微罪を理由に処刑した。さらにドイツ占領下のポーランドにおいては、ユダヤ人をかくまっていることが発覚すればその場で銃殺する政策が採られていた。ポーランドの人口は1939年の4,280万人から1945年には3,460万人にまで激減した。370万人が故意に殺害されて230万人が迫害が原因で死亡するか行方不明になったと判明するのは後のことである。
- ポツダム会談の参加国は、将来において民族間の暴力を避けるにはドイツ本国の国境外に居住する民族ドイツ人をドイツ本国に強制移住させるしかないと考えていた。ウィンストン・チャーチルは1944年に庶民院でこう述べた。「強制移住は、今まで考慮しうるもののうちでは最良の措置であり永続的なものである。常に繰り返される不幸を引き起こす多民族国家に居住する民族ドイツ人の混住状況はもはや存在しなくなる…完全な一掃が行われるのである。この移送に対して不安はない。これはむしろ現代の状況において可能なことなのである…」。このチャーチルの見解の立場をとると、強制移住はその目的を達したと考えられる。1945年に新たに設定された国境線は確固たるものであり、民族対立は殆どなくなった。しかし民族関係の安定は堅い鉄のカーテンによって説明されることでもある。なお、チャーチルは1946年の有名な「鉄のカーテン」演説でドイツ人強制移住を非難している。[2]
- ドイツ本国外、特に東ヨーロッパ諸国に組織されたドイツ人少数民族団体は第五列として1939年のナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体やポーランド侵攻を支援した。ポーランドとチェコスロヴァキアでは自衛団 (Selbstschutz) その他のドイツ民族主義組織が現地のドイツ系住民によって編成され、破壊活動を行い、タンネンベルク作戦に代表されるポーランド人虐殺など様々な敵対的行為に加担した。戦争の終盤にはヴェアヴォルフ(Werwolf、人狼部隊)、ヤークトフェアベンデ (Jagdverbände、狩猟部隊)、ブントシュー(Bundschuh、紐靴部隊)といったドイツ系住民の準軍事部隊が連合軍占領地域でゲリラ活動を行い、ポーランド人や反ナチス的ドイツ人など多数の人々を殺害した。1945年3月23日に宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは「ヴェアヴォルフ演説」と呼ばれた演説を行い、全てのドイツ人は死ぬまで戦えと訴えた。そのため、戦後も残留するドイツ系少数民族がナチス・ドイツの桎梏から解き放たれたばかりの新生国家にとり治安維持に対する脅威とされた。1939年当時に遡るとドイツ系ポーランド人の成人のうち10人に1人は自衛団 (Selbstschutz) の構成員であり、ドイツ系ポーランド人総数のうち25%はナチス・ドイツによって支援された何らかの反ポーランド的組織に属していて、ポーランド侵攻とその後の占領に加担した。彼らはタンネンベルク作戦、AB行動、ユダヤ人ゲットー建設などの迫害行為を始めとした様々な犯罪に加わった。
- この強制移住の目的は、民族ドイツ人の東方への伸張を阻止することである。ドイツの民族主義者は過去において常に、他国におけるドイツ系少数民族の存在をその国に対する領土要求の根拠としてきた。アドルフ・ヒトラーはこれを侵略戦争の口実に利用した。他国の領土からドイツ人を排除することは将来の潜在的な問題を排除することと考えられる。
- 強制移住は歴史的正当性のある行為とし、それを理由とするもの。例えばズデーテンの民族ドイツ人 (Sudetendeutsche) の多くは、チェコスロヴァキア解体に加担した。チェコの世論はドイツ人のこの行為を裏切りと捉えた。
- ドイツ領やドイツ支配地域がソ連軍に占領されるよりはるか前に、ソ連によってポーランド東部の約200万人のポーランド人がシベリアのグラグ(強制労働収容所)に強制移送された。それに加えて80万人とされるワルシャワ住民がドイツによって特殊な労働収容所へ送られていた。戦後はこういった人々が帰郷したが、戦争で破壊された祖国で住居を必要としていた。
- ソ連は1939年のポーランド侵攻でドイツと共に分割・獲得した旧ポーランド領を自国に再編入し、その結果ポーランドは戦前の領土の43%を失うこととなった。グダニスク(ダンツィヒ)を始めとした旧ドイツ領のいくつかの都市はドイツ系少数民族と戦略的に危険な国境線を排除する目的でポーランドに割譲された。さらにポーランドには、ヴィルノ(リトアニア語名ヴィリニュス)とルヴフ(ウクライナ語名リヴィウ)を失った対価として旧ドイツ領のヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)とシュチェチン(ドイツ語名シュテッティン)が与えられた。ソ連に併合された地域の代償としてポーランドに新たに与えられた回復領についてはスターリン単独の決定でなく、イギリスとアメリカによる暗黙の了解があったものと解釈できる。
- ヴァルテラント帝国大管区 (Reichsgau Wartheland) のようにポーランド侵攻後にドイツに併合され、ドイツ政府によって広範囲でいわゆる民族浄化が行われていた。そのため同地の民族ドイツ人やドイツ領に併合された後に移住してきたドイツ人の戦後の追放についてはほとんど同情されなかった。
冷戦時代の政策
冷戦時代に回復領は以下の経緯をたどった。
用語「回復領」の起源と普及
「回復領」は、第二次世界大戦後に、ポツダム協定に基づいてポーランドに併合されたドイツの東方領土を指す表現として創り出され、公式に用いられたプロパガンダの用語であった[1][6]。その根底にある考え方は、戦後のポーランドを、中世のピャスト朝ポーランド王国の継承者と位置づけ[7][8][9]、さらに、戦後の国境線に適合する民族的に均質な国家とみなす単純化をして[10]、後年のヤギェウォ朝ポーランド(1386年 - 1572年ないし1596年)のような、多民族国家として東方に広がった姿を否定するものであった[23]。戦後のポーランドが、ヤギェウォ朝ではなくピャスト朝を持ち上げた理由のひとつは、ソ連のスターリンがカーゾン線からの撤退を拒否する状況の下で、他の連合諸国が、ポーランドを満足させるためには代わりにドイツの領土を与えてもよいと考えていたという事情があった[24]。旧ドイツ領土を、いわば補償として、ポーランドに与えるという元々の議論は、やがて、当該地域が実際に「かつてのポーランド領」であるという議論によって補強されるようになった[25]。ピャスト朝時代が強調されたのは、ポーランド人たちが多民族国家ではなく民族的に均質な国家の創設を望んだためでもあった[26][23]。さらに、ピャスト朝がポーランドをドイツ人から護ったと認識されていたのに対し、ヤギェウォ朝の対抗した相手が興隆途上のモスクワ大公国だったことは、ソ連の影響下に置かれた戦後ポーランドの状況の中で持ち上げるには、ふさわしくない要素であった[24][23]。ポーランド人民共和国政府も、ポーランド労働者党も、いにしえのピャスト朝の領土に基づいたポーランド国家という理念を支持し[24][26]、小農や国家主義者など戦前からの反対勢力を押さえ込んだ[9]。実際、回復領をめぐる問題は、ポーランドの共産主義者たちと対抗者たちを分断しない、数少ない論点のひとつであり、西部国境に関して両陣営の意見は一致していた。地下出版されていた、反共新聞さえもが、「ドイツ化に終止符を打ち、東方への衝動を永遠に断ち切るため」として、ピャスト朝時代の国境を要求した[27]。
「ピャスト朝の領土の回復」という見解のプロパガンダには、大きな努力が払われ、カトリック教会も活発にこれを支援した[28]。この歴史観の普及には、学術にも責任があった。1945年、西方研究所(pl:Instytut Zachodni、en:Western Institute)が創設され、学術活動を調整するようになった。初代所長のジグムント・ヴォイチェホフスキ(pl:Zygmunt Wojciechowski、en:Zygmunt Wojciechowski)は、その使命について「我々は、いわゆる客観的な歴史編纂を目指してはいない。我々の使命は、何世紀にもわたるポーランドの歴史を提示し、その各世紀についての現在の政治的現実を、歴史的背景の上に投影することである。」と述べていた[29] 歴史学者、考古学者、言語学者、美術史家、民族学者らが学際的に恊働して、新たな国境線の正当化に取り組んだ[30]。彼らの知見は、無数のモノグラフや学術誌、教科書、旅行ガイド、放送、展覧会などによって、普及が推し進められた[31]。ピャスト朝の初期の王侯たちの時代のポーランドの版図を示す公式の地図も、新たな国境線と整合するように描かれた[9]。ノーマン・デイヴィスによれば、戦後の若い世代は教育によって誘導され、ポーランド人民共和国の領域は何世紀にもわたってポーランド国民が発展させてきたものであると思い込むように仕向けられているという。戦後世代はさらに、外国人によって長期間占領されることはあっても、あるいは、政治上の国境が移動することがあっても、ポーランド人の「祖国」は常に同じ場所にあり続けたのだと教えられていた[32]。公的見解は、ポーランド人は、歴史のいつの時代においても「回復領」に定住する奪われることのない絶対的かつ必然的な権利を持っており、他の優越する勢力によってその権利行使が妨げられることはあったとしても、権利は存在したとするものであった[32]。結果的に、ピャスト朝の概念は、何百万人ものポーランド人に受け入れられ、現在でも多数の人々がこれを信じている[9]。さらに、ポーランド人の「民族的領域」の画定に苦慮していた連合諸国を、「これらの領域の返還」をしないのは堪え難い不正義であると説得する過程でも、ピャスト朝の概念が持ち出された[9]。
回復領の大部分は、何世紀にもわたってプロイセン〜ドイツの支配下にあったが、戦後のポーランドにおいて、こうした歴史的な出来事は、「郷土」史ではなく、「外国」史の一部であると認識されていた[33]。ポーランドの学者たちは、中世のピャスト朝時代の地方史や、ポーランドの文化・政治・経済的紐帯、プロイセンにおけるポーランド語話者の歴史、中世以来の歴史的に一貫した運動としての「東方への衝動」などの課題に努力を集中した[34]。
「回復領」という表現は、共産主義政権のプロパガンダからは1949年までに姿を消したが、一般的に通用する言葉として、その後も、現在に至るまで使われ続けている[2]。しかし、これらの地域は、ポーランドの国家体制の中で、特異性のある領土であると見なすべきではないという考え方に基づいて、近年では「西部・北部領土」という表現が当局によって用いられている[2][3]。共産主義時代の歴史記述の暗部が暴露されていき、回復領という主張は放棄された[13]。しかし、1945年に獲得された領土が、まったくドイツ的な性格のものであったという事実は、ポーランド社会の全体に充分伝えられてきたとは必ずしも言えない状態である[13]。
「回復領」のポーランド化
ピャスト朝の後継者としてポーランド人民共和国を確立していくことと平行して、新たなフロンティアには、それに見合った人口が確保されなければならなかった[9]。東部辺境の領土(Kresy Wschodnie)がソ連に併合されたため、ポーランドは結果的に全体が西へ移動し、面積は 389,000 km² から 312,000 km² へ、およそ20%減少した[35]。何百万人もの「非ポーランド人」(おもにドイツ人とウクライナ人)が、新たにポーランドとなった地域から追放され、他方ではカーゾン線以東にいたポーランド人たちが東部辺境から追放されて流れ込んできた。追放者たちは「本国送還者」と呼ばれていた[9]。その結果、ヨーロッパの歴史の中でも最大規模の住民の入れ替えが行われることになった[9]。ピャスト朝の版図を回復した新たな西部・北部領土の姿は、ポーランド人入植者や、ポーランド人「本国帰還者」たちに、そこへ到達して、新体制に忠実な組織立ったコミュニティづくりに参加することを促し[36]、先行して行われた当該地域での民族浄化を正当化した[9]。ドイツ人の脱出や追放の結果、当地に残ったのは「先住民」である、マズールィ(マスリア)(Masuria)地方のマスリア人(Masurians)、ポメラニア地方のカシュビア人 (Kashubians) やスロビンシア人 (Slovincians)、上シレジア地方 (Upper Silesia) のシレジア人 (Silesians) など、300万人近いスラブ系の人々で、その大部分は、自らがポーランド人だというアイデンティティはもっていなかった[37]。ポーランド政府は、プロパガンダのために、こうした先住民たちができるだけ現地に留まるように努めた。旧ドイツ領における彼らの存在は、地域固有の「ポーランドらしさ」を示すものであるとされ、その地域を回復領としてポーランド国家に併合することを正当化するものとされていた[37]。先住民たちの「隠されたポーランドらしさ」を明らかにし、ポーランド市民としてふさわしい振る舞いの者を選別する、「確認」と「国民復帰」の過程が用意され、それにはじかれたごく少数の人々は本当に追放された[37]。「先住民」たちはこの主観的でしばしば恣意的な確認作業を嫌っていたが、それを終えた後でも、差別に直面することがあった[38]。氏名のポーランド語化の強要なども、その一例である[39]。ルブシュ県当局は 1948年の時点で、中央の当局が発見したと主張している「先住民」ポーランド人たちは、戦前の国境に接していたバビモスト(Babimost)村の住民を唯一の例外として、いずれも19世紀末から20世紀はじめに他地域から移住してきたポーランド人労働者がドイツ化したものに過ぎない、ということを認めていた[40]。
ドイツ系住民の追放と文化的遺産の除去
回復領には、併合の後にも、かなりの数のドイツ系住民が残っていた。終戦時の国民統一臨時政府当局は「回復領担当省」を設置し、副首相のヴワディスワフ・ゴムウカを兼任で担当大臣とした[41]。「本国送還局」が、住民の追放や再定住を監督・組織した。1946年2月14日の国勢調査によれば、この時点でポーランドにはまだ228.8万人のドイツ人が留まっており、そのおよそ91%に相当する207.5万人は、回復領に住んでいた。この段階で、ドイツ人は回復領の人口の41%を占めていた。ところが、1950年には、国内のドイツ人はわずか20万人に急減し、1957年には6.5万人にまで減少してしまった[42]。
第二次世界大戦後、回復領からは多数のドイツ人が脱出して西方へ去ったが (Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II) 、それに続いたのは、何世紀もの間に刻まれたドイツの歴史と文化を、公の目に触れる場所から一掃するという大規模なキャンペーンであった。オハイオ大学のT・デイヴィッド・カープ (T. David Cup) は、これを次のように説明している:
ポーランドの政権と人民とカトリック教会は、相互に努力しながら、より徹底的、攻撃的に、人物・場所・モノから民族性を消去することに取り組み、各地方のドイツ人の歴史を上書きして消去し、ポーランドの過去を、ポーランド人の記憶という抽象的な領域にとどまらず、物理的な物体の領域において称揚した。 — [40]
1946年1月に、新しい公式地名を定めるために地名決定委員会が設置された[43]。以降、1950年末までに、3万件以上のドイツ語地名が、ポーランド語地名に置き換えられるか[16]、ポーランド語化した中世のスラブ語の地名に置き換えられた[44][45]。スラブ語地名が存在していなかった場合には、ドイツ語地名を翻訳するか、全く新たな地名が創出された[46]。ドイツに関係のある名称、例えばドイツの町にちなんで命名された道路の名称はなどは、新しい名称が与えられた[47]。
公立学校、政府メディア、教会の典礼におけるドイツ語の使用は禁止された[16][45]。ドイツ人に関係した記念碑、墓、建物、建物群なども、多数が破壊された[48]。美術品は、国内の他の場所に移された[49]。文化財などの撤去を組織的に行うために、集積所が設定されることもあった[50]。早くも1945年のうちに、貨車28台分、トラック118台分にのぼる、膨大な量のシレジアの美術品が、ワルシャワの国立美術館 (pl:Muzeum Narodowe w Warszawie、en:National Museum, Warsaw) に送られた[50]。プロテスタント教会は、カトリック教会に改装されるか、教会以外の用途に転用されるか、カトリック教会の建築用材を得るために解体された[51]。ドイツ語で記された文章は、教会や墓地など宗教的なものに記されていた文言も含めてすべて消された[52]。ルブシュ地方 (pl:Ziemia lubuska、en:Ziemia Lubuska)[53]では、最後まで残ったドイツ文化の痕跡を探し出して破壊するための「社会主義的競技会」が開催されたという[52]。シレジア地方では、こうした取り組みによって生じた損害は、第二次世界大戦によって生じた損害に匹敵するものであった[54]。
再定住
1939年のドイツの国勢調査によると、後にポーランドの回復領となった地域には、最も東に分布するドイツ国内の少数民族だったポーランド系住民も合わせて、885.5万人であった[55]。ドイツの国勢調査ではポーランド語話者の数を、多言語話者を含めて70万人未満としているが、 ポーランドの人口学者たちは、旧ドイツ領におけるポーランド人の実際の数は120万人[55]ないし130万人[56]に達していたと推計している。120万人としている推計によれば、そのうち、およそ85万人が上シレジア地方、およそ35万人が東プロイセン南部に住んでおり、その他の地域を合わせて、さらに5万人程度が他の地域に広がっていたとされている[55]。
ポーランド国内の各地からやって来た人々は、たちまちドイツ系住民の穴を埋め、追放と平行して転入が進行した。入植者の第一陣は、1945年3月にはすでに到来していたという[57]。彼らは、まだ赤軍が展開している時点から、戦前の国境に近いところで、放棄された農場や村落に入り込んでそれを手に入れていた[57]。入植者に加え、他のポーランド人たちもやって来て略奪行為に加担し、すぐさま同様の事態が旧ドイツ領全域に広がった[57]。1945年3月30日、「グダニスク県」が設置され、回復領では最初の、ポーランドの地方行政体が成立した[58]。ドイツ人たちが次々と収容され、追放されていく中で、500万人近い入植者たちが[15][59]、あるいはこの地域に引き寄せられて、あるいは強制されて、1945年から1950年の間にやって来たということになる。さらに、110.4万人の旧ドイツ領時代からの住民(うち85.1万人は上シレジア)が、ポーランド国籍を認められて残留を許された。この結果、回復領におけるポーランド人の人口は、1950年には 5,894,600人に達した[55]。入植者たちは背景の違いによって以下のような集団に分けて捉えることができる。
- ポーランド中部から、自由意志によって移動してきた入植者(多数派)。[15]
- ナチスドイツの強制労働から解放されたポーランド人(最大で200万人)。[14][15]
- いわゆる「本国送還者」: ソ連に併合された旧ポーランド領から追放されたポーランド人で、新たに西部国境地帯に入植することを選んだ者。当地では人口の26%を占めたともされる(最大で200万人)。[14][15]
- 1947年のヴィスワ作戦で移住を強制された非ポーランド人。
- 数万人のユダヤ人ホロコースト生存者。その大部分は東方からの「本国送還者」(en:Repatriation of Poles)で、ほとんどが下シレジアに定住し、ユダヤ系の企業や各種組織を興した。ヴロツワフ(ドルヌィ・シロンスク県)、シュチェチン(西ポモージェ県)、ヴァウブジフ(ドルヌィ・シロンスク県)には、大規模なコミュニティがあった[61]。しかし、大多数のユダヤ人は、1968年に当時の共産主義政権が糸を引く大規模な反ユダヤ人運動が起こった時期 (en:Polish_1968_political_crisis#Antisemitic_purges) に国外へ去った[62]。
当時、ポーランドやソ連の新聞や役人は、ポーランド人に「チャンスにめぐまれた土地」である西方へ移住するよう奨励していた[15]。こうした新しい領土は、逃亡したドイツ人たちが放棄した贅沢な邸宅が、勇敢なる入植者を待っている、とか、家具付きの家と仕事が手に入る、という風に表現されていた。しかし実際には、これらの地域は戦争によって荒廃しており、インフラストラクチャーはほとんど破壊され、高い犯罪率と略奪行為の横行に悩まされていた。治安が回復されるまでには、何年もの時間が必要だった。
1970年、西部・北部領土における人口が、はじめて戦前の水準に並んだ( 1970年 - 8,711,900人: 1939年 - 8,855,000人)。同年には、ポーランドの他の地域の人口も戦前の水準に達した(1970年 - 23,930,100人: 1939年 - 23,483,000人)[55]。
西部・北部領土に残留するドイツ系住民数の推計値は様々なものがあるが、戦後の追放の後にもドイツ系住民の脱出が続いていたことははっきりしている。1956年から1985年までの間、シレジア出身者40.7万人、ヴァルミア・マズールィ県出身者およそ10万人が、ドイツ国籍を獲得してドイツへと出国した[55]。
今日では、西部・北部領土の人口のほとんどはポーランド人であるが、小さなドイツ系住民の小集団も、オルシュティン、マズールィ地方(いずれもヴァルミア=マズールィ県)、上シレジアの特にオポーレ県などの少数の場所に存在している。
共産主義者の政権獲得における回復領の役割
民主主義的な正当性の裏付けを欠き、赤軍と保安省秘密警察の支持、テロとプロパガンダだけを支えとしていた共産主義政権は、反ドイツのプロパガンダを通して自己正当化を図った[41]。ドイツの「報復主義」が、恒久的なドイツからの脅威として喧伝され、共産主義者だけがポーランドの永続的な回復領の確保を補償し、保護し得るのだとする主張が展開された。当時、国民統一臨時政府で副首相兼回復領担当相だったヴワディスワフ・ゴムウカは、1945年5月のポーランド労働者党中央委員会で、次のように断言している。
当時の政権による、「所有者を失った資産」の人民への再分配は、幅広い層からの共感を獲得していた[16]。
ポーランドの民主化と回復領
1989年12月のポーランド民主化、1990年より始まる東欧革命、1991年のソ連崩壊、およびドイツ再統一を経て回復領は以下の経緯をたどった。
回復領の法的位置づけ
冷戦期間中の西側諸国の公的立場は、ポツダム会談の決定とされる文書(ポツダム協定)について、国際的な条約として認められるものではなく、単なる覚書に過ぎない、とするものであった。ポツダム協定によってドイツの東部国境はオーデル・ナイセ線と定められたが、覚書の最後の条項には、ドイツの最終的な地位と領土は、ドイツと連合国側との平和条約によって決すると記されていた。1945年から1990年までの間に、ポーランド人民共和国は、当時のドイツ民主共和国 (東ドイツ)とドイツ連邦共和国 (西ドイツ)の双方とそれぞれ国境線に関する条約を締結した。1950年、ポーランドと東ドイツは、ズゴジェレツ条約に調印して、オーデル・ナイセ線を正式に国境として承認し、共産主義者たちはこれを「平和と友好の国境」と呼んだ[64]。1970年12月7日、ポーランドと西ドイツは、ポーランドの西部国境線に関してワルシャワ条約に調印し、両者が非暴力を貫き、既存の「事実上の」国境であるオーデル・ナイセ線を受け入れる、とした。しかし、最終的な条約は、1990年のドイツ最終規定条約を待たなければならなかった。
ドイツ最終規定条約以前の西ドイツ政府は、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領を「暫定的にポーランド、ないし、ソ連の支配下にある領土」と位置づけていた。1990年、ドイツ再統一に対して国際的な承認を得ることを容易にするため、ドイツの政治体制は「現実に基礎をおくこと」を承認し、ドイツ最終規定条約の条項を受け入れ、ドイツはオーデル・ナイセ線以東の領土要求をすべて放棄することになった。その結果、条約をめぐる交渉は順調に進み、民主主義国家のドイツ連邦共和国 (西ドイツ)と共産主義国家のドイツ民主共和国 (東ドイツ)の統一も順調に進んだ。同年、最終規定条約が発効し、統一後のドイツ連邦共和国はポーランドとドイツ・ポーランド国境条約に調印して、両国間の現在の国境を確定した。
このように、第二次世界大戦後は回復領に関しては共産主義、ポーランド民族主義、ドイツ民族主義、が入り混じり激しい思想的戦いを繰り広げていた。しかし1990年にドイツ・ポーランド国境条約が批准されて公法における国境が画定し、2008年に出された欧州人権裁判所の判決で私法における国境が画定して、回復領に関する問題は法的にも思想的にも最終解決している。
出典・脚注
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- ^ a b c d Gregor Thum, Die fremde Stadt. Breslau nach 1945, 2006, p.298, ISBN 3570550176, 9783570550175
- ^ a b Martin Åberg, Mikael Sandberg, Social Capital and Democratisation: Roots of Trust in Post-Communist Poland and Ukraine, Ashgate Publishing, Ltd., 2003, ISBN 0754619362, Google Print, p. 51
- ^ ポメラニアのうち、Hinterpommern(「下ポメラニア」などとも訳される、ポメラニア東部)がポーランド領となり、その範囲は現在のポーランドの西ポモージェ県、ポモージェ県などに及んでいる。
- ^ a b 1946年にこの地域がポーランドの地方行政に編入された際には、東部の一部がポドラシェ県に組み込まれ、残りの部分が「オルシュティンスキ県」となった。その後、ポドラシェ県にいったん組み込まれた部分も含めて県が再編され、ヴァルミア県とマズールィ県が成立した。1999年にヴァルミア県とマズールィ県が合併して、現在のヴァルミア・マズールィ県が成立した。「回復領」が広く用いられていた1989年の民主化以前には、2県が別個に存在していた。県としての記述ではなく、歴史的な地域としての記述であるが、各国語版のヴァルミア (pl:Warmia、de:Ermland、en:Warmia)、マズールィ (pl:Mazury、de:Masuren、en:Masuria) も参照のこと。
- ^ a b Tomasz Kamusella and Terry Sullivan in Karl Cordell, Ethnicity and Democratisation in the New Europe, 1999, p.169: "[the term "recovered territories" was] christened so by the Polish communist-cum-nationalist propaganda", ISBN 0415173124, 9780415173124
- ^ a b Joanna B. Michlic, Poland's Threatening Other: The Image of the Jew from 1880 to the Present, 2006, pp.207-208, ISBN 0803232403, 9780803232402
- ^ a b Norman Davies, God's Playground: A History of Poland in Two Volumes, 2005, pp.381ff, ISBN 0199253404, 9780199253401
- ^ a b c d e f g h i j k l Geoffrey Hosking, George Schopflin, Myths and Nationhood, 1997, p.153, ISBN 0415919746, 9780415919746
- ^ a b Jan Kubik, The Power of Symbols Against the Symbols of Power: The Rise of Solidarity and the Fall of State Socialism in Poland, 1994, pp.64-65, ISBN 0271010843, 9780271010847
- ^ Davies, pp.381ff, p.395
- ^ Karl Cordell, Andrzej Antoszewski, Poland and the European Union, 2000, p.166, ISBN 0415238854, 9780415238854
- ^ a b c Karl Cordell, Stefan Wolff, Germany's Foreign Policy Towards Poland and the Czech Republic: Ostpolitik Revisited, 2005, ISBN 0415369746, 9780415369749, p.139: "In addition [...] it has been relatively easy for Polish historians and others to attempt to debunk communist historiography and present a more balanced analysis of the past - and not only with respect to Germany. It has been controversial, and often painful, but nevertheless it has been done. For example, Poland's acquisition in 1945 of eastern German territories is increasingly presented as the price Germany paid for launching a total war, and then having lost it totally. The 'recovered territories' thesis previously applied in almost equal measures by the communists and Catholic Church has been discarded. It is freely admitted in some circles that on the whole 'the recovered territorries' in fact had a wholly German character. The extent to which this fact is transmitted to other groups than the socially and politically engaged is a matter for some debate. 「加えて...ポーランドの歴史家たちや他の者にとって、共産主義者たちの歴史編纂の暗部を暴露し、よりバランスがとれた過去の分析を提示しようとすることは決して難しいことではなく、これはドイツに関することばかりではなかった。それは議論を呼ぶ、また、しばしば痛みを伴う仕事であったが、結局は成し遂げられた。例えば、1945年にポーランドが獲得したドイツ東方領土は、全面戦争を起こし全面的に敗北したドイツが支払った対価として提示されるようになってきている。かつて、共産主義政権とカトリック教会がほとんど同様に唱えていた『回復領』の主張は、もはや放棄された。一部には、『回復領』が実際は全くドイツ的性格であることを、自由に認める立場の人々もいる。ただし、この事実が、社会的・政治的に深い関心を持っている人々の範囲を超えて、どの程度まで広がりをもっているのかという点については、さらに議論を要するところである。」
- ^ a b c d Dierk Hoffmann, Michael Schwartz, Geglückte Integration?, p.142
- ^ a b c d e f g h Cordell, Antoszewski, p.168 によれば、最初の1年で455万人が到来したとされる。
- ^ a b c d e Dan Diner, Raphael Gross, Yfaat Weiss, Jüdische Geschichte als allgemeine Geschichte, p.164
- ^ Thum, p.344
- ^ 県名 pl:Województwo zachodniopomorskie は「西ポメラニア」という意味であるが、現在ドイツ側のメクレンブルク=フォアポンメルン州の一部となっている、かつての「西ポメラニア」(de:Vorpommern、「上ポメラニア」と訳されることもある)と混同しないよう注意。
- ^ シレジア州は、1919年に下シレジア州 (Niederschlesien) と上シレジア州 (Oberschlesien) に分割された。ドルヌィ・シロンスク県は、ポーランド語で「下シレジア県」の意であり、範囲は下シレジア州とほぼ重なる。
- ^ 歴史的なルーサティア(ドイツ語: Lausitz、ラウジッツ)の大部分は、ドイツ側のブランデンブルク州に所属している。
- ^ 第二次世界大戦以前からのポーランドの「ポモージェ県」は、現在のクヤヴィ・ポモージェ県の領域を中心に、現在のポモージェ県とヴィエルコポルスカ県の一部まで広がっていた。県都は、現在のクヤヴィ・ポモージェ県の県都であるブィドゴシュチュに置かれていた。現在のポモージェ県は、旧「ポモージェ県」のバルト海に近い部分と旧自由都市ダンツィヒの領域を合わせて1946年に成立した「グタニスキェ県」に、旧西プロイセン州(第一次世界大戦の結果、既に大部分がポーランド領となっていた)、旧ポメルン州の一部を合わせて成立したものである。
- ^ Lauterpacht, E (1961). International Law Reports. Cambridge University Press. p. 77. ISBN 0521463696. "under the "administration" of Poland the territory of the former Free City of Danzig and certain former German territories. These territories, situated east of the Oder and Neisse rivers, have since been referred to by the Polish legislation as "the Recovered Territories"「...ポーランド『当局』支配下の旧ダンチッヒ自由市および一定の旧ドイツ領土。オーデル川およびナイセ川の東に位置するこれらの領土は、以降ポーランド行政下で『回復領』と呼ばれている...」
- ^ a b c Kubik, p.65
- ^ a b c Rick Fawn, Ideology and national identity in post-communist foreign policies, 2003, p.190, ISBN 0714655171, 9780714655178
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- ^ 終戦直後はルブシュ県が独立しておらず、その範囲は当時の「ポズナニ県」の一部であった。「ポズナニ県」は、現在のヴィエルコポルスカ県の大部分とルブシュ県を合わせた範囲にほぼ相当する。
- ^ Zybura, p.58
- ^ a b c d e f Piotr Eberhardt, Jan Owsinski, Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-century Central-Eastern Europe: History, Data, Analysis, 2003, pp.142ff, ISBN 0765606658, 9780765606655
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- ^ Roos, Hans (1966). A history of modern Poland: from the foundation of the State in the First World War to the present day. Knopf 2009年8月4日閲覧。
- ^ Piotr Eberhardt, Jan Owsinski, Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-century Central-Eastern Europe: History, Data, Analysis, 2003, ISBN 0765606658, 9780765606655, p.142 は、1950年時点で479万人という数字を挙げている。
- ^ Thum, p.129
- ^ Selwyn Ilan Troen, Benjamin Pinkus, Merkaz le-moreshet Ben-Guryon, Organizing Rescue: National Jewish Solidarity in the Modern Period, pp.283-284, 1992, ISBN 0714634131, 9780714634135
- ^ Thum, p.127 + p.128
- ^ Aleksander Kochański, Protokół obrad KC PPR w maju 1945 roku [The Minutes of the Session of the Central Committee of the Polish Workers' Party in May 1945], Dokumenty do dziejów PRL, 1 (Warsaw: Instytut Studiów Politycznych PAN), 1992.
- ^ Frage und Antwort, Nr. 6 (1950)
関連項目
- 国境線。
- 地名