前田勝之助
日本の技術者・経営者
前田勝之助 | |
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生誕 |
(昭和6年)1931年2月5日(93歳) 福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈 |
親 | 父 繁師(しげのり)、母 道枝 |
生い立ち
福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈(現福岡県飯塚市)で生れた。父繁師(しげのり)は住友鉱山忠隈炭鉱の病院の薬局長。母道枝は山鹿(熊本県)の御殿医の流れをくむ竹下病院の長女。住友鉱山の庭付きの社宅で育った。姉上野栄子、兄慶之助。[1]
菰田小学校時代約50人の学級の中に朝鮮人が5,6人いた。彼らはなぜか1,2歳年上だった。日本人と朝鮮人の生徒間のけんかが始まると、級長の前田勝之助が間に割って入った。[2]
嘉穂中学時代は勤労動員に遭遇、炭鉱で採炭の仕事に明け暮れた。男たちが戦争に駆り出され徹底した人手不足だったからだ。切り羽の発破作業もこなした。「月月火水木金金」の年中無休。[3]
父親が住友鉱山を辞し郷里熊本に起業したため、約半年の一人暮らしののち嘉穂中学から熊本中学に転校した。このとき転入枠2名に引揚者の子弟が殺到し転入試験の倍率は百倍に及んだ。
エピソード
- 熊大工学部時代、研究室で樟脳を蒸留して精度の高い結晶化を課題として与えられた。丁寧な実験手順をまもり、失敗するだろうとの教授の予想を覆して成功した。このとき化学実験分野が性に合っていると自覚した。
- 東レ入社後配属の際、大学院卒業だから当然研究所配属との社の指示を拒絶して工場配属をもとめ、人事担当常務を唖然とさせた。研究ではなく現場を強く希望していた。戦争で廃墟と化した熊本市街を花岡山上から見て、産業の現場で日本再建を担うことを願っていた。
- 愛知工場に配属直後、半年前から問題になっていた高周波乾燥機の手直しを求められた。学生時代の専攻とは違う分野の問題であったが一人こつこつと条件をつめて解決し、先輩たちに認められた。
経歴
- 1937(昭和12)年 菰田小学校 入学
- 1943(昭和18)年 嘉穂中学(旧制) 入学
- 1946(昭和21)年4月 熊本中学(旧制) 転入
- 1948(昭和23)年 熊本中学(旧制) 卒業
- 1948(昭和23)年 第五高等学校 (旧制) 入学
- 1949(昭和24)年 学制改革により五高は新熊本大学の一部に。工学部工業化学科を選択
- 1953(昭和28)年 熊本大学工学部 卒業
- 1956(昭和31)年 京都大学大学院工学研究科 修士課程(指導教官=小田良平教授)修了
- 1956(昭和31)年 東洋レーヨン(現東レ)入社
- 1985(昭和60)年 東レ取締役 就任
- 1987(昭和62)年 東レ社長 就任
- 1997(平成9)年 東レ会長 就任
- 2002(平成14)年 東レ最高経営責任者(CEO) 就任
- 2004(平成16)年 東レ名誉会長 就任