守田勘彌

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守田勘弥(もりたかんや)は、江戸の芝居小屋森田座(守田座)の座元で、後に歌舞伎役者となった。江戸時代前期から14世を数える。10代目森田勘弥。5代目以降は座元として襲名していくが森田座は休座河原崎座に代行をさせた。守田勘彌と表記することもある。

森田座開祖。俗に宇奈木(うなぎ)太郎兵衛。太郎兵衛自身は俳優ではなかった。舞台は舞踊の名手だった、初代坂東又九郎に任せた、後に又九郎の次男を養子に迎え勘弥を継がせ森田座を譲った。晩年には隠居名友楽と称した。
初代勘弥の兄の坂東又次郎の子が2代目を襲名した。初代守田勘弥の甥。のちの三代目坂東又九郎
坂東又次郎の子であり、二代目勘弥の弟。のちの三代目坂東又九郎
二代目の子。
四代目の母方の血縁で、宝来屋金七の子という、1744年に襲名。のちに隠居し隠居名を森田又左衛門を名乗った。
狂言作者の初代中村重助の子で、初代沢村宗十郎の弟子となって竹中重の井から二代目澤村小伝次となる。1751年5代目勘弥の娘婿となり、六代目を襲名した。1774年に隠居し隠居名を森田八十助を名乗った。
六代目の長男。
五代目の子。1783年七代目死去に伴い襲名。
天保13年、死去した十代目の代わりに森田座を再興させようと幕府に出願するが却下される。
三代目坂東三津五郎の三男。1830年に九代目の養子となり、十代目を襲名。1833年に森田座を再興させる。1837年、負債のため森田座を休業。控櫓河原崎座に期限10年で興行権を譲る。大阪で病死。
四代目坂東三津五郎。安政3年(1856年)、森田座改め守田座を再興。文久3年11月、死去。
歌舞伎役者後に帳元中村翫左衛門の次男。→十二代目守田勘弥を参照。
十二代目の三男。→十三代目守田勘弥を参照。
十二代目の四女・みきの子で、伯父にあたる十三代目の養子。→十四代目守田勘弥を参照。