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[[1907年]](明治40年)に「栗林製作所」として創業。[[1917年]]に「栗林写真機械製作所」に名称変更し、写真機の製造を開始した。日本では小西六写真工業(現[[コニカミノルタ]])に次ぎ写真機メーカーとして参入し[[スプリングカメラ]]や[[二眼レフカメラ]]を製造、[[皆川商店]]がそのブランド「ファースト」で販売していた。戦後は皆川商店と決別した<ref>『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.112。</ref>。[[1959年]]10月に'''ペトリペンタ'''で[[一眼レフカメラ]]に参入<!-- この時点での商号は高島鎮雄『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.66、仲田元亮『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.103とも「栗林写真工業」としている。 -->、[[1962年]]7月にペトリカメラに[[商号]]変更した<ref>『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.67。</ref>。
 
[[1960年代]]には「[[ニコン]]のカメラと機能は一緒で価格は半値」という安価な製品を主力に据えたが、カメラが高価な道楽品という時代でもあり、かえって「安かろう悪かろう」というイメージが定着してしまった。この時期の製品は'''ペトリV6'''に代表される独創的で斬新なデザインやメカニズム、そして破格の安さで知られる。前述の悪いイメージなどの結果他社との競合に負け、さらに末期は[[労働争議]]による[[労働争議#サボタージュ|サボタージュ]]{{要曖昧さ回避|date=2020年11月}}等によって生産ラインも遅滞し、[[1977年]]10月(昭和52年)に[[倒産]]した<ref>『クラシックカメラ専科No.9、35mm一眼レフカメラ』p.104。</ref>。その後[[労働組合]]([[日本労働組合総評議会|総評]]全国金属)が「ペトリ工業株式会社」として存続させ、最終モデルとなる'''ペトリMF10'''を送り出すものの旧態依然の[[レンズマウント#種別|スクリューマウント]]で電子化が遅れたカメラには全く競争力はなく、1980年代末の[[オートフォーカス]]カメラブームの中でカメラからは撤退した。
なお、会社自体は現存しており、[[ペトリ工業]]に社名変更した上で[[埼玉県]][[北葛飾郡]][[杉戸町]]で、大手メーカー向けの[[双眼鏡]]のOEM生産を手掛けている<ref>[http://www.jtmas.jp/jtma/menber.html 会員名簿|工業会情報|一般社団法人日本望遠鏡工業会]</ref>。