「ミハイル・カラシニコフ」の版間の差分

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カラシニコフが次に参加したのは、新型突撃銃の設計であった。1945年に始まったコンペに参加し、カラシニコフは自動式カービンの設計を元に設計を行った。この時、後に妻となる女性技師エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエワ(Ekaterina Viktorovna Moiseyeva)と知り合っている。カラシニコフの草案から新型突撃銃の設計図面を引いたのは彼女だった。
 
ドイツ軍の自動小銃に影響を受け(ただし実際の発射機構はアメリカの[[M1ガーランド|M1カービン]]に範をとって)、[[1946年]]に後に[[AK-47]]として知られることになる全自動発射可能な[[自動小銃]]を設計した。その年に行われた試験で他の小銃と比較した結果、信頼性と火力の高さを評価され、既に1946年に半自動式のSKS(シモノフ・カービン)が制式採用されていたにもかかわらず、新たにAK-47の生産が決定される。[[1949年]]から[[ソビエト連邦軍]]内で配布が始まり、[[1950年代]]中期以降は広く普及した。のち改良型・派生型の「AKM」や「AK-74」も出現している。
 
彼の設計した小火器は、一般にソ連の兵器らしく簡潔な設計で、並外れて耐久性に優れ、過酷な環境でも確実に作動して、多くの軍人からの信頼を勝ち得た。これらの功績により、2度も[[社会主義労働英雄称号]]を与えられ、[[ソビエト連邦共産党]]にも入党する<ref>[http://gasur.ru/databases/govreestr_detail.php?ID=5715 Дело по приему в члены КПСС Калашникова Михаила Тимофеевича]</ref>。