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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 小栗 忠順
| 画像 = Oguri Tadamasa.jpg
| 画像サイズ =
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| 別名 = 又一
| 諡号 =
| 戒名 = 陽寿院殿法岳浄性大居士<ref>早川 13頁</ref>
| 墓所 = [[東善寺]]、[[雑司ヶ谷霊園]]、[[普門院 (さいたま市)|普門院]]<ref>[http://www.city.saitama.jp/004/005/006/001/005/001/003/p000500.html 普門院]</ref>
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[豊後国|豊後守]]、[[上野国|上野介]]
| 幕府 = [[江戸幕府]][[書院番|西の丸書院番]][[使番]][[目付]][[外国奉行]][[旗本寄合席|寄合席]][[小姓組番頭]][[勘定奉行]][[町奉行|南町奉行]][[歩兵奉行]][[講武所]]御用取扱寄合席[[陸軍奉行]]並[[勤仕並寄合]][[軍艦奉行]][[旗本寄合席|寄合]][[海軍奉行|海軍奉行並]]陸軍奉行並勤仕並寄合
| 主君 = [[徳川家慶]][[徳川家定|家定]][[徳川家茂|家茂]][[徳川慶喜|慶喜]]
| 氏族 = [[三河小栗氏]]
| 父母 = 父:[[小栗忠高]]、母:小栗くに子 ([[小栗忠清]]の娘)<ref>[http://kingendaikeizu.net/oguritadamasa.htm 家系図~近現代・系図ワールド]</ref>
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| 特記事項 =
}}
 
'''小栗 忠順'''(おぐり ただまさ)は、[[江戸時代]]末期の[[幕臣]]、[[勘定奉行]]、[[町奉行|江戸町奉行]]、[[外国奉行]]。
 
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8月9日、日本初の本格的ホテル、[[築地ホテル館]]の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに[[清水喜助]]らが建設したもので<ref>村上 106-121頁</ref>、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。<ref>吉田 217頁</ref>
 
=== 罷免、最期大政奉還 ===
[[慶応]]3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍[[徳川慶喜]]が朝廷に[[大政奉還]]。翌慶応4年(1868年)1月に[[鳥羽・伏見の戦い]]が行われて[[戊辰戦争]]が始まる。
 
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ただし、一方で慶喜は和戦両論の構えを取っており、横浜の警備体制を増強して、[[箱根関]]と[[碓氷関]]に目付を派遣し、官軍を迎え撃つ体制を強化している。小栗の作戦を却下した理由としては、その時点での慶喜はあくまで'''武備恭順'''の姿勢であり、家臣団が小栗の意見に引きずられて武備恭順の域から逸脱するのを防ぐためだったと推測されている。慶喜としては抗戦の意思を捨てる気はないものの、薩長の官軍化に困惑する味方を安心させる為、朝廷に対して恭順の意思を見せる必要があり、明確に敵対の意思を示す小栗の作戦は受け入れることが出来なかったとされる<ref>慶喜が抗戦の意思を捨てて、絶対恭順の姿勢を見せるのは2月以降である。</ref>。なお、幕臣のほとんどは主戦論を唱えていたが、小栗の作戦以外にも「軍艦で大坂城を攻撃する」「[[富士川]]で官軍を食い止める」「[[碓氷峠]]を防衛線にする」など様々な作戦が提案される議論百出の状態で、一つの意見に集約できる状態ではなかったという<ref>安藤優一郎 「幕末維新」の不都合な真実 119-124頁</ref>。
 
[[Fileファイル:Tozen-ji.jpg|thumb|東善寺(群馬県[[高崎市]])]]
慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中[[松平康英]]から呼出の切紙を渡され、[[芙蓉の間]]にて老中[[酒井忠惇]]、若年寄[[稲葉重正]]から御役御免及び勤仕並[[旗本寄合席|寄合]]となる沙汰を申し渡されると<ref>小栗日記 69頁</ref><ref>高橋敏 125頁</ref>、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県[[高崎市]]倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の[[三野村利左衛門]]から[[千両箱]]を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた<ref>三野村 52頁、倉渕村 239-240頁</ref>。また、2月末に[[渋沢成一郎]]から[[彰義隊]]隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した<ref>倉渕村 240頁、加来 104頁、早川15-16頁</ref>。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており<ref>村上 176頁。[http://tozenzi.cside.com/kotaka-yohsui.html 権田村・小高用水]</ref>、農兵の訓練をしていた様子は見られない。
=== 最期 ===
[[File:Tozen-ji.jpg|thumb|東善寺(群馬県[[高崎市]])]]
慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は[[東山道]]軍の命を受けた軍監[[豊永貫一郎]]、[[原保太郎]]に率いられた[[高崎藩]]・[[安中藩]]・[[吉井藩]]兵により東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の[[荒川祐蔵]]・[[大井磯十郎]]・[[渡辺太三郎]]と共に引き出され、斬首された<ref>なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している(片山 121頁)。</ref><ref>小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある(山田 184頁、畠山 247-248頁)。</ref>。[[享年]]42。
 
慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は[[東山道]]軍の命を受けた軍監[[豊永貫一郎]]、[[原保太郎]]に率いられた[[高崎藩]]・[[安中藩]]・[[吉井藩]]兵により東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の[[荒川祐蔵]]・[[大井磯十郎]]・[[渡辺太三郎]]と共に引き出され、斬首された<ref>なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している(片山 121頁)。</ref><ref>小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある(山田 184頁、畠山 247-248頁)。</ref>。[[享年]]42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという<ref>[http://saint-just.seesaa.net/article/35466291.html 「小栗上野介、殺害直後の古文書発見」2007年3月~東京新聞]</ref>。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の[[徒目付]][[浅田五郎作]]が斬ったという説もある。
 
== 残された家族 ==
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟[[日下数馬]]の娘)を養女にし、その許婚として[[駒井朝温]]の次男の忠道を養子に迎えていたが、忠道も翌日に高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてから面識があった[[会津藩]]の[[横山常守]]を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、[[善光寺]]参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった<ref>村上、190-206頁</ref>。その後、一行は[[新潟市|新潟]]を経て閏4月29日には会津に到着し、[[松平容保]]の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された<ref>村上、209頁</ref>。一行は翌明治2年([[1869年]])春まで会津に留まり、[[東京]]へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の[[武家奉公人|奉公人]]であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は[[日本橋浜町]]の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年([[1877年]])に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた<ref>村松、富田、246-248頁</ref><ref>村上、211、218-219頁</ref>。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年([[1885年]])に道子が没すると、国子は親族である[[大隈重信]]に引き取られた。大隈の勧めにより[[矢野龍渓]]の弟・[[小栗貞雄|貞雄]]を婿に迎え、小栗家を再興した<ref>[http://kingendaikeizu.net/oguritadamasa.htm]、[http://tozenzi.cside.com/aizu.htm]</ref>。
 
== 人物 ==
[[Fileファイル:小栗忠順.jpg|thumb|雑司ヶ谷霊園にある小栗忠順の墓]]
* 小栗は1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている<ref>尾佐竹猛 112頁。ただし、本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。</ref>。
* 小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている<ref>小野寺 153頁。</ref>。一説には、英語の「company」を「[[商社]]」と訳したのは小栗とされる<ref>[[広辞苑]]第六版 「商社」1379頁。</ref>。