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=== 上洛後 ===
以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家[[連枝]]衆の中ではまとめ役的な存在であったという<ref>[[{{Cite book|和書|author=谷口克広]]『|authorlink=谷口克広|title=信長の親衛隊』 (|publisher=中央公論新社、1998年)|year=1998}}</ref>。織田家が上洛を果たした[[永禄]]12年([[1569年]])から[[元亀]]元年([[1570年]])頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から[[室町幕府]]、[[公家]]との折衝役を任され、[[山科言継]]、[[吉田兼見]]、[[一条内基]]らと交友を持った<ref>『言継卿記』、『兼見卿記』など。特に吉田兼見は信広が病気の際に見舞いに訪れるなど親しい間柄であった。</ref>。元亀元年(1570年)の[[比叡山]]焼き討ち、[[元亀]]3年([[1572年]])の[[岩村城]]救援などにも参戦した。[[天正]]元年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1573年]][[5月18日]])には、織田家と不和になっていた[[足利義昭]]と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている<ref>『信長公記』、『言継卿記』</ref>。
 
[[天正]]2年([[1574年]])、最後の[[長島一向一揆|伊勢長島一向一揆]]攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、[[願証寺|長島願証寺]]が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた[[顕忍|願証寺顕忍]]や[[下間頼旦|三位法橋]]は弾丸に斃れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に[[大木兼能]]([[佐々宗淳]]の外祖父)と[[一騎討ち]]となり、信広は討ち死にしたという。
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== 参考文献 ==
;書籍
* [[{{Cite book|和書|author=西ヶ谷恭弘]]『|authorlink=西ヶ谷恭弘|title=考証 織田信長事典』(|publisher=[[東京堂出版]]|year=2000年)}}
;史料
 
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[[Category:勝幡織田氏|のふひろ]]
[[Category:織田信秀の子女|のふひろ]]