「織田信広」の版間の差分
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=== 上洛後 ===
以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家[[連枝]]衆の中ではまとめ役的な存在であったという<ref>
[[天正]]2年([[1574年]])、最後の[[長島一向一揆|伊勢長島一向一揆]]攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、[[願証寺|長島願証寺]]が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた[[顕忍|願証寺顕忍]]や[[下間頼旦|三位法橋]]は弾丸に斃れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に[[大木兼能]]([[佐々宗淳]]の外祖父)と[[一騎討ち]]となり、信広は討ち死にしたという。
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== 参考文献 ==
;書籍
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;史料
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[[Category:勝幡織田氏|のふひろ]]
[[Category:織田信秀の子女|のふひろ]]
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