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'''木賃宿'''(きちんやど)は、日本の[[宿泊施設]]の種類の一つ。
 
本来の意味は、[[江戸時代]]以前の[[街道]]筋で、[[燃料]]代程度もしくは相応の宿賃で[[旅人]]を宿泊させた最下層の[[旅籠]]の意味である。宿泊者は大部屋で、[[寝具]]も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「[[薪]]」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。'''木銭宿'''(きせんやど)ともいう。また、商人宿、職人宿などを含む場合もある。草間八十雄によれば、明和年間、江戸下谷山崎町(のちの万年町)に仁木某が初めて開業した。宿泊者はみずから飯を炊き、薪代すなわち木賃として鐚3文を支払った
 
宿場制度のなくなった明治以後は単に安価で粗末な宿泊施設や安宿を意味する言葉となった。[[1887年]]の「宿屋営業取締規則」においては、宿泊者には夜具および風呂を提供し、食事は供さないとする。木賃宿を宿泊施設の一形態として、「賄(まかない)を為さず木賃その他の諸費を受けて人を宿泊せしむるもの」と定義している。場所も街道から都市部のいわゆる貧民街に増加し、労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟となった。明治末期に[[横山源之助]]東京地方は478軒[[幸徳秋水]]など東京地方では警視庁令で木賃宿営業地調査を行い、体験記録を残しているが、「見るにも聞くにもただただ驚き恐るるのほかなき別世界、黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」と表現限定されるも東京であった。「やど」を逆木賃宿昭和7年中に宿泊した「ドヤ」という言葉ができるのもこの頃者は、334138人(男301360人、女32778人)である。この形態の木賃宿は現代まで存続し、[[簡易宿所]]となった
 
明治末期に[[横山源之助]]、[[幸徳秋水]]などが体験調査を行い記録を残しているが、室内や寝具は不潔きわまりなく、[[ノミ]]や[[南京虫]]など寄生虫の跳梁する「見るにも聞くにもただただ驚き恐るるのほかなき別世界、黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」と表現される劣悪な施設であった。「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができるのもこの頃である。木賃宿のなかには、家族連れで継続的に宿泊するものには、1室を貸し切り、家族であれば何人宿泊してもよいというものもあった。昭和7年12月末現在で、全府県で営業する木賃宿は14451軒であった。この形態の木賃宿は現代まで存続し、[[簡易宿所]]となった。
 
草間八十雄によれば、明和年間、江戸下谷山崎町(のちの万年町)に仁木某が初めて開業した。宿泊者はみずから飯を炊き、薪代すなわち木賃として鐚3文を支払った。その後も宿泊者には夜具および風呂を提供し、食事は供さない。木賃宿のなかには、家族連れで継続的に宿泊するものには、1室を貸し切り、家族であれば何人宿泊してもよいというものもあった。昭和7年12月末現在で、全府県で営業する木賃宿は14451軒、うち東京地方は478軒、東京地方では警視庁令で木賃宿営業地が限定される。東京の木賃宿に昭和7年中に宿泊した者は、334138人(男301360人、女32778人)である。
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