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en:The Fall of Berlin (film)18:14, 9 September 2015‎の翻訳。
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| 製作会社 = [[モスフィルム]]
| 配給 =
| 公開 = {{Flagicon|SSR1923}} [[1949年]][[12月21日]](式典公開)<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[1950年]][[1月21日]](一般公開)<br />{{Flagicon|JPN}} [[1952年]][[12月2日]]
| 上映時間 = 167分(オリジナル版)<br />151分(1953年以降版)
| 製作国 = {{SSR1923}}
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| 次作 =
}}
『'''ベルリン陥落'''』(ベルリンかんらく、原題(ロシア語):<span lang="ru">'''Падение Берлина'''</span>)は[[1949年]]に公開された[[ソビエト連邦]]のカラー[[戦争映画]]である。日本では[[1952年]]に公開された。題名の[[ベルリン市街戦|ベルリン攻防戦]]だけでなく、[[独ソ戦]]全体が描かれている。全2部構成
 
*あま[[ヨシフ・スターリン]]の神格化の影響を強く受けておにもスターリン賛美が[[ナチス・ドイツ]]を破った最大功労者として描かれているなど[[プロパガンダ]]色が強いため、スターリンの死後は[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]の[[スターリン批判]]からソ連でも厳しい評価を受け上映されることがほとんどかった。
 
== あらすじ ==
[[1917年]]、[[ロシア革命]]の年に生まれた鉄工所に勤務するアレクセイ(愛称アリョーシャ)は優秀な工場労働勤務を表彰されて[[レーニン勲章]]を授与され、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]書記長の元に謁見する。アレクセイには婚約者で小学校教諭のナターシャ(本名ナターリア・ルミャンツェワ)がいたものの、1941年6月22日の[[ナチス・ドイツ]]の[[独ソ不可侵条約]]破棄による[[バルバロッサ作戦]]により、ナターシャはナチスに拉致される。報復を誓った主人公はソビエト連邦[[赤軍]]に入隊し、[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]など数々の戦闘で武勲を挙げる。[[1945年]]4月、遂に[[ベルリン]]に迫るソ連赤軍。熾烈な戦闘の上、ナチスの首領[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は妻[[エヴァ・ブラウン|エヴァ・ヒトラー]]と供に服毒自殺を遂げる。陥落したベルリンの中でナターシャと4年振りの再会を果たし、スターリン首相の到着するベルリン飛行場へ待つ。「スターリン賛歌」の合唱のなか、旅客機より降り立つスターリン。ソ連軍により解放された世界各地の[[捕虜]]たちから[[英語]]・[[フランス語]]・[[イタリア語]]・[[チェコ語]]・[[ギリシア語]]・[[セルビア語]]などでスターリン首相は祝福を受ける。スターリン首相の前に歩み出るアレクセイとナターシャ。ナターシャはスターリンの前に赴き、手に接吻を受ける。
 
== 史実と異なる脚色 ==
*劇中ではヒトラー夫妻が供に服毒自殺を遂げるが、史実ではヒトラーはピストルと[[青酸カリ]]を併用し、エヴァは青酸カリによって自殺した([[アドルフ・ヒトラーの死]])。[[総統地下壕]]を占領し、ヒトラーの遺体を回収したソ連軍およびスターリンはヒトラーの頭蓋骨に銃創が残っていたことを把握していたが、詳細を発表しようとはしなかった。
*スターリンがベルリン飛行場へ降り立つシーンがあるが、スターリンは大の飛行機嫌いであり、演出によるものである。
*第二次世界大戦、独ソ戦線で活躍した名将[[ゲオルギー・ジューコフ]]元帥がほとんど登場しない。これは映画作成当時、ジューコフがスターリンによってソビエト連邦の[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]]に左遷されていたことによる。史実ではジューコフは大戦中の主要局面で活躍しているが、全て省かれている。
 
== その他 ==
*[[ソ連占領地区]]にあった[[アグフア・ゲバルト|アグファ社]]の工場で製造されたフィルムを使用して撮影したカラー映画である。カメラテストの結果、安定した色彩を再現できるのは曇天時のみであることが判明し、曇り空の時を伺い撮影を行った。
*撮影が終戦直後であるため、第二次世界大戦で実際に使用された本物の車両や、かなり本物に似せた改造車両が多数出てくる。
*市街戦のロケは当時のベルリン市内で行われた。
*あまりにもスターリン賛美の[[プロパガンダ]]色が強いため、スターリン没後は[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]の[[スターリン批判]]から、ソ連でも厳しい評価を受けて上映されることがほとんど無かった。
 
== キャスト ==
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*[[ウィンストン・チャーチル]]:V.スタニツィン
*[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・ローズヴェルト]]:O.フレリク
 
== 製作 ==
=== 企画 ===
[[1946年]]7月、映画大臣イヴァン・コルシャコフの指示により、スターリンのお気に入りの映画監督の一人である{{仮リンク|ミハイル・チアウレリ|ru|Чиаурели, Михаил Эдишерович}}と脚本家の{{仮リンク|ピョートル・パブレンコ|ru|Павленко, Пётр Андреевич}}が、『{{仮リンク|The Vow|en|The Vow (1946 film)}}』に続き監督・脚本を務めることになった<ref name = "Story">{{cite book |author=Wendell Steavenson|title=Stories I Stole|year=2003|location=|publisher=Grove Press|isbn=978-0-8021-1737-3|page=43}}</ref><ref name = "Taylor">{{cite book |author=Richard Taylor|title=Film propaganda: Soviet Russia and Nazi Germany|year=1999|location=|publisher=I.B. Tauris|isbn=978-1-86064-167-1|pages=99–127}}</ref><ref name="History">{{cite web |url=http://urokiistorii.ru/2010/09/3-chiaureli%20|script-title=ru:"Падение Берлина": миф о Сталине, созданный им |title=''The Fall of Berlin'': Stalin's Myth, Made By Him| language =Russian |author=Olga Romanova |date=|publisher=|work=urokiistorii.ru|accessdate=30 April 2011}}</ref>。本作はスターリンの70歳の誕生日である1949年12月21日<ref>スターリンの正確な誕生日は「12月18日」だが、最高指導者に就任して以降「12月21日」と記録を改竄していた。</ref>の式典で公開することを目的として製作が進められた<ref name = "Cinema">{{cite book |author=Richard Taylor, D. W. Spring|title=Stalinism and Soviet cinema|year=1993|location=|publisher=Routledg|isbn=978-0-415-07285-4|page=88}}</ref>。本作はベルリン市街戦と[[アドルフ・ヒトラーの死]]を描いた初めての映画作品となった<ref name = "Perspective">{{cite book |author=Leen Engelen, Roel Vande Winkel|title=Perspectives on European film and history|year=2007|location=|publisher=Academia Scientific|isbn=978-90-382-1082-7|page=185}}</ref>。
 
スターリンは[[ベルリン市街戦]]の描写に強い関心を示し、パブレンコの脚本に干渉して何度も書き直しを命じている<ref name = "Karl">{{cite book |author= Thomas Lindenberger (editor)|title=Massenmedien im Kalten Krieg: Akteure, Bilder, Resonanzen|year=2006|location=|publisher=Böhlau Verlag|isbn=978-3-412-23105-7|pages=83–90}}</ref>。[[スヴェトラーナ・アリルーエワ]]の証言によると、チアウレリは「スターリンの長男[[ヤーコフ・ジュガシヴィリ]]の死亡シーンを描きたい」と提案したが、即座にスターリンに拒否されたという<ref name = "Dancer">{{cite book |author=David Caute |title=The Dancer Defects: the Struggle for Cultural Supremacy During the Cold War|year=2003|location=|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-924908-4|pages=143–146}}</ref>。
 
=== 撮影 ===
撮影には[[ソ連占領地区]]の[[アグフア・ゲバルト|アグファ社]]で製造されたカラーフィルムが使用されている<ref name = "Taylor"/>。カメラテストの結果、安定した色彩を再現できるのは曇天時のみであることが判明し、曇り空の時を伺い撮影を行い、1万人のロシア人エキストラを動員した<ref name="Spi">{{cite web |url=http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-44448956.html|title=Frau Hitler reicht das Gift| trans_title=Mrs. Hitler is Satisfied with the Poison| language =German |author=non-credited writer |date=13 July 1950|publisher=[[Der Spiegel]]|work=spiegel.de|accessdate=19 September 2011}}</ref>。
 
[[国会 (ドイツ)|ドイツ国会議事堂]]の戦闘シーンは、議事堂が[[イギリス]]の占領地域に位置していたためロケーション撮影ができず、{{仮リンク|バーベルスベルク・スタジオ|en|Babelsberg Studio}}で撮影された<ref name="Spi"/>。ベルリン市街戦のシーンの大半は戦闘で破壊された[[バルト諸国]]の都市で撮影された<ref name="Abgesang">{{cite web |url=http://www.zeit.de/1991/39/die-meister-des-abgesangs|title=Die Meister des Abgesangs| trans_title=The Masters of the Swan Song| language =German |author=Andreas Kilb |date=20 September 1991|publisher=[[Die Zeit]]|work=zeit.de|accessdate=19 September 2011}}</ref>他、バーベルスベルク・スタジオに1平方キロメートルの模型が作成され、第2部の撮影が行われた<ref name="History"/><ref>{{cite journal |journal=[[Ogoniok]]|date=29 January 1951|volume=|issue=1182|pages=12 |title= Padeniya Berlina|author= Mikheil Chiaureli |issn=0131-0097 |url=http://books.google.com/books?id=nYJBAQAAIAAJ&pg=PA12&dq=%D0%BC%D0%B0%D0%BA%D0%B5%D1%82+%D0%B1%D0%B5%D1%80%D0%BB%D0%B8%D0%BD%D0%B0&hl=en&ei=Qpp3Tpn8HIqB4ASJifmoDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=%D0%BC%D0%B0%D0%BA%D0%B5%D1%82%20%D0%B1%D0%B5%D1%80%D0%BB%D0%B8%D0%BD%D0%B0&f=false |format= |accessdate=19 September 2011 }}</ref>。戦闘シーンでは戦闘機193機、4個戦車大隊、鹵獲した[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の戦車45両を動員して撮影し、撮影中に150万リットルの燃料を消費したという<ref name = "Karl"/>。
 
=== 演出 ===
ロシアの歴史家アレクサンドル・プロホロフは、本作が[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]のプロパガンダ映画の影響を受けていることを指摘している<ref name="Pro">{{cite web |url=http://www.kinokultura.com/2006/12-prokhorov.shtml|title=Size Matters: The Ideological Functions of the Length of Soviet Feature Films|author=Alexander Prokhorovr |year=2006|work= kinokultura.ru|accessdate=30 April 2011}}</ref>。作家ジョン・ライリーも、スターリンがベルリン飛行場に降り立つシーンについて、実際のスターリンは大の飛行機嫌いであり、『[[意志の勝利]]』でヒトラーが飛行機から降り立つシーンに影響を受けた演出だと指摘している<ref name = "Era">{{cite book |author=Philip Boobbyer|title=The Stalin Era|year=2000|location=|publisher=Springer Verlag|isbn=978-0-415-18298-0|page=113}}</ref>他、ドイツ国会議事堂の戦闘シーンは『[[戦艦ポチョムキン]]』の「オデッサの階段」のオマージュだと指摘している<ref name = "Story">{{cite book |author=Wendell Steavenson|title=Stories I Stole|year=2003|location=|publisher=Grove Press|isbn=978-0-8021-1737-3|page=43}}</ref>。
 
また、[[第二次世界大戦]]で[[赤軍]]司令官として活躍した[[ゲオルギー・ジューコフ]]がほとんど登場しない。これは製作当時、ジューコフがスターリンによってソビエト連邦の[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]]に左遷されていたことによる。史実のジューコフは大戦中の主要局面で活躍しているが、本作には一切描かれていない。また、[[1953年]]に[[ラヴレンチー・ベリヤ]]が粛清されて以降、本作からベリヤの登場シーンが削除され、現在流通しているDVDにもベリヤの登場シーンは収録されていない<ref name="Taylor2">{{cite web |url=http://www.kinokultura.com/2007/15r-padenie.shtml |title=Mikheil Chiaureli: The Fall of Berlin (Padenie Berlina, two parts, 1949)|author=Richard Taylor |year=2007|work= kinokultura.ru|accessdate=30 April 2011}}</ref>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:へるりんかんらく}}