「ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)」の版間の差分

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Tribot (会話 | 投稿記録)
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[[1560年]]に夫[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]と死別して未亡人となった女王メアリーは、[[1561年]][[8月20日]]に帰国した。女王の帰国に当たって、ボスウェル伯は海軍司令官として万全を尽くした。当時のスコットランドの実力者だったマリ伯[[ジェームズ・ステュアート (マリ伯)|ジェームズ・ステュアート]]は、なんとかボスウェルを会衆の仲間に引き入れようと何度も説得を試みたが、彼はあくまでもメアリーに忠誠を誓い、決してこの誘いに乗ろうとはしなかった。このため、マリ伯とボスウェルは終生に渡って激しく対立することとなった。また、マリ伯は影で手を回して、できるだけボスウェルをエディンバラから遠ざけ、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]に影響力を持てないようにした。権謀術数を駆使するマリ伯に比べ、どちらかというとボスウェルは行動型のタイプで、自分が主体的に関わらない場合、宮廷での貴族達の謀略を嫌っていたという。
 
[[1565年]][[7月29日]]、女王メアリーとダーンリー卿[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ヘンリー・ステュアート]]が結婚したが、[[8月1日]]には[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]からの援助を取り付けたマリ伯が反乱を起こした。しかし、期待していたイングランドからの援軍は現われず、ボスウェルはマリ伯の軍隊を撃退し、マリ伯は他の主犯格のスコットランド貴族達とイングランドに亡命した。同じ年、ボスウェルはスコットランド有力貴族で有力な[[カトリック教会|カトリック]]貴族でもある、ゴードン家のハントリー伯の妹ジーンと結婚した。ゴードン家は[[1562年]]の夏にメアリーに対して謀反を起こしていたが、マリ伯の反乱鎮圧のために恩赦を与えられて地位も回復していた。
 
===リッチオとダーンリー卿の死===