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'''ユーヌス'''([[14151416年]] - [[1487年]])は、東[[チャガタイ・ハン国]]([[モグーリスタン・ハン国]]の君主(在位[[14691462年]] - 1487年)。史料によっては'''ハージー・アリー'''(哈只阿力)と表記される<ref name=bio>{{harvnb|Rossabi|1976}}</ref>
{{複数の問題|ソートキー=人1487年没___世界史
| 出典の明記 = 2012-2
| 参照方法 = 2012-3
| 独自研究 = 2012-3
}}
 
同時代の人間からは「ペルシア風の長い優美なひげを蓄え、洗練された弁舌と物腰の人物」と評され、イスラームの教養を身に付けていた<ref>佐口透「ユーヌス・ハーン」『アジア歴史事典』9巻(平凡社, 1962年)、101頁</ref>。
'''ユーヌス'''([[1415年]] - [[1487年]])は、東[[チャガタイ・ハン国]]([[モグーリスタン・ハン国]])の君主(在位:[[1469年]] - 1487年)。
 
== 生涯 ==
[[ワイス (モグーリスタン)|ワイス]]の長男。[[1432年]]に父が死去すると、弟の[[エセン・ブカ (モグーリスタン)|エセン・ブカ]]と後継をめぐって争い、[[1434年]]までに敗れて[[ティムール朝]]に追放された。ティムール朝の[[シャー・ルフ]]に保護されて、西チャガタイ・ハン国の名目上の君主に擁立された。その後、ティムール朝の支援を受けて弟と争い続け、[[1462年]]に弟が死去すると[[トルキスタン]]東部の大半を奪い取った。
=== 父ワイスの死 ===
モグーリスタン・ハン国の君主[[ワイス (モグーリスタン)|ワイス]]の長子として生まれる。ワイスが暗殺された時、ユーヌスと彼の弟の[[エセン・ブカ (モグーリスタン)|エセン・ブカ]]のどちらをモグーリスタン・ハン国の後継者とするかで国内が2つに割れた<ref name=bio/>。内戦の結果、ユーヌスは従者を伴って[[サマルカンド]]を統治する[[ティムール朝]]の統治者[[ウルグ・ベク]]の元に亡命するが、監禁される。ユーヌスはティムール朝の君主[[シャー・ルフ]]の元に送られて厚いもてなしを受けた後、モウラーナーのシャラーフッディーン・ヤズィードに預けられた。モウラーナーでは[[ヤズド]]で学問を修め、シャラーフッディーンが没した後は[[シーラーズ]]に移住した。
 
=== 後継者争い ===
弟の後はその息子が継いでいたが、ユーヌスはこれを破って[[1472年]]までにモグーリスタンを支配下に治めた。以後は[[オイラト]]と戦いながら、混乱するティムール朝に介入して勢力を拡大する。その一方で遊牧民と原住民の争いも巧みな政治手腕で解決させようと尽力した。
モグーリスタンの単独統治者となったエセン・ブカはたびたびティムール帝国に侵入し、モグーリスタン軍の侵入に悩まされたティムール朝の君主[[アブー・サイード (ティムール朝)|アブー・サイード]]は、[[1456年]]にユーヌスをモグーリスタンに送り返した。アブー・サイードが送った軍隊を伴って帰国したユーヌスは[[アミール]](貴族)の中に支持者を獲得し、そのうちの一人であるMir Pir Haji Kunjiの娘ダウラト・ベギムを妻とした。[[カシュガル市|カシュガル]]に移動した際、エセン・ブカとカシュガルを統治する{{仮リンク|ドグラト部|en|Dughlats}}のアミール・サイード・アリーの連合軍と交戦し、敗北した。敗戦後すぐにモグーリスタンから離れてアブー・サイードの元に戻り、[[イシク・クル]]周辺の土地を与えられる。ユーヌスは再びモグーリスタンに戻り、アミールたちの支援を受けて戦ったが、エセン・ブカに決定的な勝利を収めることはできなかった。
 
[[1457年]]にアミール・サイード・アリーが没した後、彼の子のSaniz Mirzaはカシュガルの支配を確立するためにユーヌスに援助を求めた。ユーヌスがカシュガルに到着したとき、カシュガルで敬意を払われていたサイードの一人Amir Zia-ud-Dinを{{仮リンク|バダフシャーン|en|Badakhshan}}のシャー・スルタン・ムハンマド・バダフーシーの元に派遣し、バダフーシーの6人の娘のうち一人をユーヌスの元に嫁がせることを提案した。バダフーシーは四女のスルタン・ベギムをユーヌスの元に送り、従属を誓った。後にユーヌスはスルタン・ベギムとの間に2人の息子と2人の娘をもうけた。
1487年に73歳で死去した。後を子の[[マフムード (モグーリスタン)|マフムード]]が継いだ。
 
[[1462年]]にエセン・ブカが没し、モグーリスタンはユーヌスとエセン・ブカの子[[ドースト・ムハンマド]]を支持する派閥に二分された。ムハンマドは[[アクス市|アクス]]を本拠地としてモグーリスタン東部([[東トルキスタン|ウイグルスタン]])を支配し、伝統的な遊牧生活を否定する政策を採っていた。一時期ムハンマドはカシュガルを支配下に置いて優位に立つが、[[1468年]]([[1469年]])にアクスでユーヌスに討たれて戦死した。ムハンマドの遺児ケベク・スルタンは[[トルファン市|トルファン]]に逃れ、数年の間同地を統治した。
 
=== 即位後 ===
即位後、ユーヌスは1460年代に成立した[[カザフ・ハン国]]とティムール朝との友好関係を保ち、カザフと同盟して[[ウズベク]]と敵対した。[[1468年]]にシャイフ・ハイダルに率いられたウズベクがモグーリスタンに侵入するが、モグーリスタン軍はシャイフ・ハイダルを戦死させ、[[ムハンマド・シャイバーニー・ハーン]]の即位に至るまでの間ウズベクの勢力は弱体化することになる。
 
同1468年にティムール朝のアブー・サイードが[[白羊朝]]との戦いで敗死した後、アブー・サイードの息子たちが王位を主張して各地で割拠し、モグーリスタンとティムール朝の間で結ばれた協定は複雑なものになる。
 
ユーヌスは伝統的な遊牧生活を捨てて定住生活を採る政策を進めるが、アミールたちは彼の方針に反対し、そのうちの一人であるシャイフ・ジャマールはユーヌスを拘束して数年の間モグーリスタンの実権を握った。ユーヌスの最初の妻であるイサン・ダウラト・ベギムはジャマールの部下ホージャ・カランに与えられたが、ホージャ・カランはイサン・ダウラト・ベギムの邸宅を訪れた際にイサン・ダウラト・ベギムの策略によって暗殺される。この事件の直後にジャマールはモグーリスタンのアミールによって暗殺され、[[1472年]]にユーヌスは遊牧生活を営むことを条件に釈放された。同年にウイグルスタンのケベク・スルタンが部下の手によって殺害され、ユーヌスは彼の部下がウイグルスタンを統治することを認める。
 
シャイフ・ジャマールの死後、ティムール朝との婚姻外交が積極的に行われた。[[1484年]]にユーヌスはティムール朝の君主[[スルタン・アフマド (ティムール朝)|スルタン・アフマド]]と王族ウマル・シャイフの対立を利用して[[タシュケント]]を占領した。タシュケントに定住するユーヌスの決定にモグーリスタンのアミールは反対し、彼らの多くはユーヌスの子{{仮リンク|アフマド・アラク|en|Ahmad Alaq}}の元に移動した。[[ホータン市|ホータン]]、カシュガル、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]を支配するドゥグラト部のアブー・バクルの勢力を抑えることはできず、ユーヌスの企ては失敗した。
 
1487年にユーヌスはタシュケントで病死した。死後、モグーリスタンの東部はアフマドが支配し、タシュケントはユーヌスの長子{{仮リンク|マフムード (モグーリスタン)|en|Mahmud Khan (Moghul Khan)|label=マフムード}}が支配した。
 
== 家族 ==
* 妻:ダウラト・ベギム
* 妻:スルタン・ベギム
* 男子:{{仮リンク|マフムード (モグーリスタン)|en|Mahmud Khan (Moghul Khan)|label=マフムード}}
* 男子:{{仮リンク|アフマド・アラク|en|Ahmad Alaq}}
* 女子:Mihr Nigar Khanim
* 女子:Kutluk Nigar Khanim
* 女子:Sultan Nigar Khanim
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*[[Mirza Muhammad Haidar]]. '''The Tarih-i-Rashidi''' ( A History of the Moghuls of Central Asia). Translated by [[Edward Denison Ross]], edited by N.Elias. [[London]], 1895
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* M.Kutlukov. '''About emergence of the [[Yarkant County|Yarkand]] state'''. [[Almaty]],1990
*「中央アジア史」(山川出版社)
* {{citation| first=Morris|last=Rossabi|contribution=Ḥājjī `Ali | url=http://books.google.com.au/books?id=067On0JgItAC&pg=PA479|editor1-first=L. Carrington|editor1-last= Godrich|editor2-first= Chaoying|editor2-last= Fang|title=Dictionary of Ming Biography, 1368–1644. Volume I (A-L)|publisher= Columbia University Press|year=1976|isbn=0-231-03801-1|pages=479–481}}
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{{先代次代|東[[チャガタイ・ハン国]]のハン|1469年 - 1487年|[[ドースト・ムハンマド]]|[[アフマド・アラク]]<br/>[[マフムード (モグーリスタン)|マフムード]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ゆぬす}}