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== 人物 ==
[[1890年]](明治23年)[[7月]]、[[佐賀県]][[嬉野市|嬉野
▲[[1890年]](明治23年)[[7月]]、[[佐賀県]][[嬉野市|嬉野村]]に生まれる。[[長崎県]][[佐世保市]]に移住。[[1910年]](明治43年)に佐賀の[[第18師団 (日本軍) |第18師団]][[歩兵第55連隊|第55連隊]]第6中隊に入隊し、[[1914年]](大正3年)の[[第一次世界大戦]]に[[衛生兵]]として[[山東半島]]で従軍した。
軍での凱旋帰国の後、[[東京]]で生活。ここで、[[馬賊]]の[[薄益三]](うすき・ますぞう)と知り合い、[[1916年]](大正5年)[[満州]]に渡った。しかし、現地での馬賊隊との連帯がうまくいかず、[[中国東北部]]や[[朝鮮半島]]を転々とし[[大陸浪人]]の身となった。[[1919年]](大正8年)、失意の内に帰国。[[平民青年党]]、[[労働ホテル]]、[[神州義団]]([[右翼団体]])等の設立を計画するも挫折。職も転々とし、行く先々で衝突を起こす日々を繰り返し、自暴自棄から社会への不満を募らせていった。
[[1921年]](大正10年)、最後の事業と決めて貧民救済事業に乗り出した。朝日にとっては、本来この事業に出資すべきであるのに、利己的になりそれが「亡国修羅」を生む要因となると映っていたためでもあった。[[渋沢栄一]]の事務所に事業設立のための寄付金を要求し、断られると[[切腹]]しようとしかけ、寄付金百円をせしめる事に成功した。だが、この事業も途中で頓挫を余儀なくされた。ちょうどその折、[[1920年|前年]]3月の[[戦後恐慌]]で自身は株で大損し、[[安田財閥]]の首領・[[安田善次郎]]が株を一手に買い占めて
[[1921年]](大正10年)[[9月27日]]、安田の住む[[神奈川県]][[大磯町]]字北浜496にある別邸・寿楽庵に、[[弁護士]]・[[風間力衛]]<ref>実在の人物であり、[[渋沢栄一]]の他に、朝日が度々事業運営のためと称して金を
朝日は犯行の直前に投宿していた長生館の女将宛てに『宿賃も支払わずにこんな事になったが、非常に相済まない』との、また佐賀県の父親には『・・・非常な罪を犯す不幸を許して・・・』との手紙を折鞄の中に入れていた。また斬奸状と遺書も持参しており、斬奸状には、'''「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」'''と記されてあったという。
朝日の葬儀には、全国の労働組合や支援者が'''
[[柔道]]初段の腕前だった。また[[国会議員|代議士]]にも何人か知己がいたが、ある代議士は、「物に激しやすい性質で、小心者であった」と酷評している。
== 登場する作品 ==
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