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| 画像 = Michael Kalashikov.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = [[2009年
| 渾名 =
| 生年月日 = [[1919年]][[11月10日]]
| 生誕地 = {{
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1919|11|10|2013|12|23}}
| 死没地 = {{RUS}}<br>{{flag|Udmurtia}}、[[イジェフスク]]
| 所属組織 = [[ソビエト連邦軍]] → [[ロシア連邦軍]]<br />[[イジェフスク機械製作工場]] → [[イジェフスク機械製作工場|イズマッシュ]](現:[[カラシニコフ・コンツェルン]])
| 軍歴 = [[1938年]] - [[2013年]]
| 最終階級 = [[中将|技術中将]]
| 戦闘 = [[大祖国戦争]]
| 勲章 = [[ロシア連邦英雄]]<br />[[社会主義労働英雄]](2回)<br />[[:en:Order of St. Andrew|聖アンドレイ勲章]]<br />[[レーニン勲章]](3回)<br />[[:en:Order "For Merit to the Fatherland"|2等祖国功労勲章]]<br />[[十月革命勲章]]<br />[[:en:Order of Military Merit (Russia)|戦争功労勲章]]<br />[[祖国戦争勲章|1等祖国戦争勲章]]<br />[[労働赤旗勲章]]<br /> [[:en:Order of Friendship of Peoples|人民友好勲章]]<br />[[赤星勲章]] 他
| 配偶者 = エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・カラシニコワ(旧姓:モイセーエワ)
| 子女 = [[:en:Victor Kalashnikov|ヴィクトル・M・カラシニコフ]] 他
| 除隊後 =
| 墓所 = [[:en:Federal Military Memorial Cemetery|連邦軍人記念墓地]]
| 署名 =
| 著名な実績 = [[AK-47|AK]]の設計
}}
'''ミハイル・ティマフェービッチ・カラシニコフ'''({{
史上もっとも大量に製造され拡散している[[アサルトライフル]]である「[[AK-47|AK]]」({{lang-ru-short| == 経歴 ==
カラシニコフの一族は元々[[クバーニ|クバン地方]]に暮らす[[コサック]]で、かつては「カラシニク({{Lang|ru|Калашник}})」という姓だった。ロシア風のカラシニコフという姓は、19世紀半ばに一族が農民になった頃に改めたものである。1910年、皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が[[アルタイ地方]]への入植と引き換えに農地の譲渡を行うという政策を発表し、カラシニコフ家もこれに従い同地方[[:en:Kurya, Kuryinsky District, Altai Krai|クリヤー村]]に入植した。1919年、ミハイル・カラシニコフは18人兄弟の8人目として生を受ける。ただし、18人のうち生き残ることができたのは8人のみであり、カラシニコフが実際に何番目に生まれたのかは定かではない。一家は小さな丸太小屋に暮らし、カラシニコフは他の兄弟と共に農作業を手伝いつつ過ごした。幼少期は病弱な子供だったが外で遊ぶことを好み、また当時から何かを作ることに興味を持っていたという。
[[第一次五カ年計画#ソ連の第一次五カ年計画|第一次五カ年計画]]が推し進められる中、やがてクリヤー村でも[[クラーク (農家)|富農]]撲滅運動に関連した会議が盛んに開かれるようになり、1930年にはカラシニコフ家も土地や農機具を所有していたとして富農に認定された。1932年には[[ソビエト連邦における農業集団化|農業集団化政策]]に抵抗したとして一家は財産のほとんどを没収された上に市民権を剥奪され、[[トムスク州]]の[[:ru:Нижняя Моховая|ニージ
1936年、友人である[[コルホーズ]]の会計係と共謀して再度脱走を遂げる。この際、パスポートの取得に必要な書類を偽造する為、検印と国の印章を偽造した。カラシニコフはのちに偽装印章について、「これこそ私の最初の発明品である」と語っている。また、再びクリヤー村に向かう途中、会計係の故郷であらかじめ隠してあった[[ジョン・ブローニング#自動式拳銃|ブローニング拳銃]]1丁を回収している。この為にカラシニコフらは地元警察に数日間拘束された。彼はこの拳銃の分解・組立・整備に熱中していたが、村を離れる際にばらばらにしてあちこちに捨てたという。カラシニコフはこの出来事こそが銃器への興味を抱くきっかけだったと回想している。その後は会計係の兄が鉄道員として働いていた[[カザフスタン]]に移り、寝台列車に寝泊まりしつつ、鉄道技師や鉄道機関区の政治局技術秘書として働いていた。
=== 大祖国戦争 ===
1938年、[[:en:Western Ukraine|西ウクライナ]]にて兵役を果たすべく[[赤軍]]に入隊する。カラシニコフは入隊式で担当者に機械工作への情熱やその分野での能力をアピールし、戦車操縦士兼整備士としての訓練を受けることとなった。この頃にも戦車兵向けに支給されていた[[トカレフTT-33|TT
当時の赤軍では装備や人員の不足が深刻だったこともあり、カラシニコフは戦闘が始まってすぐに[[:ru:12-я танковая дивизия (СССР)|第12戦車師団]]に所属する[[T-34]][[戦車]]の戦車長に任命されている。10月のとある日、カラシニコフがハッチから身を乗り出して周囲の様子を伺っていた時、至近距離に砲弾が着弾した。全身に砲弾片を受けたカラシニコフは意識を失い、負傷者として収容された。その後、他の負傷者らと共に護送されることとなり、ドイツ軍からの襲撃を受けつつも[[トルブチェフスク]]まで撤退することに成功した。
病院で療養中、カラシニコフは前線での経験や負傷兵らとの会話を通じて、近代的な自動火器の不足こそが敗北の原因と考えるようになり、[[短機関銃]]への関心を強めていった。かつてソ連では[[国防人民委員部|国防人民委員代理]]兼[[:en:Main Missile and Artillery Directorate|砲兵総監]][[グリゴリー・クリーク]]元帥のように短機関銃を軽視する高官も多く、[[ウラジーミル・フョードロフ (銃器設計者)|ウラジーミル・フョードロフ]]、[[ヴァシーリー・デグチャレフ]]、[[ゲオルギー・シュパーギン]]といった自動火器の価値を高く評価する銃器開発者らは政府当局と対立する立場にあった。1939年の[[冬戦争]]を経て短機関銃の評価は改められたものの、独ソ戦が幕を開けた1941年の時点では未だ十分に普及していなかったのである。カラシニコフはかつて自らも使用したデグチャレフの短機関銃より優れた銃器を設計しようと考え、病院の図書室で銃器関連の蔵書を読み漁り、様々な兵科の負傷兵が交わす自動火器についての議論に耳を傾けた。
[[File:Kalashnikov Mikhail (5).jpg|thumb|カラシニコフ(1944年頃)]]
その後もカラシニコフは研究を続けたが、やがて療養休暇を命じられ、戦前働いていた鉄道機関区に向かった。ここで彼は機関区長を説得し、機関区内の作業所や設備を利用する許可を得た。必要なだけの工員を集めたカラシニコフは、現地の軍当局の協力も受けつつ短機関銃の設計を続けた。カラシニコフが手がけた試作銃を検討した地方軍事委員会は、研究施設が疎開していた[[アルマトイ|アルマアタ]]に彼を送ることとした。ここで試作銃に改良が加えられた後、カラシニコフは砲兵士官学校が疎開していた[[サマルカンド]]に移動した。ここでは{{仮リンク|アナトリー・ブラゴ
=== AK
[[File:AK-47 type II noBG.png|thumb|AK
{{Main|AK-47}}
カラシニコフが次に参加したのは、新型[[アサルトライフル|突撃銃]]の設計であった。1945年に始まったコンペに参加し、カラシニコフは
ドイツ軍の
また1958年には[[分隊支援火器]]である[[RPK軽機関銃]]、1961年には[[汎用機関銃]]である[[PK (機関銃)|PK機関銃]]が採用され、[[ドラグノフ狙撃銃]]を除くソ連歩兵の主要な武装の全てがカラシニコフの設計によるものとなった。
彼の設計した小火器は、一般にソ連の兵器らしく簡潔な設計で、並外れて耐久性に優れ、過酷な環境でも確実に作動して、多くの軍人からの信頼を勝ち得た。これらの功績により、2度も[[社会主義労働英雄称号]]を与えられ、[[ソビエト連邦共産党]]にも入党する<ref>[http://gasur.ru/databases/govreestr_detail.php?ID=5715 Дело по приему в члены КПСС Калашникова Михаила Тимофеевича]</ref>。▼
▲彼の設計した小火器は、一般にソ連の兵器らしく簡潔な設計で、並外れて耐久性に優れ、過酷な環境でも確実に作動して、多くの軍人からの信頼を勝ち得た。これらの功績により、2度も[[社会主義労働英雄称号]]を与えられ、[[ソビエト連邦共産党]]にも入党する<ref>
=== AK-47のその後 ===▼
[[File:Stoner meets Kalashnikov.jpg|thumb|right|ストーナー(左)とカラシニコフ(右)]]▼
[[マルタ会談]]による[[冷戦]]終結後の[[1990年]][[5月16日]]にカラシニコフは渡米して[[M16自動小銃]]の設計者である[[ユージン・ストーナー]]と初めて対面した。二人は数日間、語り合い、買い物や夕食をともにするなどして親交を結んだ<ref>https://erenow.com/ww/ak-47-weapon-changed-face-of-war/7.php KALASHNIKOV AND HIS GUN VISIT AMERICA</ref>。▼
[[ソビエト社会主義共和国連邦]]解体後の[[1998年]]には、聖[[アンデレ|アンドレイ]]の守護勲章({{lang|ru|орден Святого Андрея Первозванного}})を受けた。引退時の最終的な階級は[[中将|技術中将]]であり、この階級は彼の功績から特例として終身有効であった(「退役中将」ではない)。技術工学の博士号を持つ。また、故郷のアルタイ地方には銅像も建てられている。▼
▲[[File:Stoner meets Kalashnikov.jpg|thumb|right|ストーナー(左)とカラシニコフ(右)(1990年5月22日)]]
▲[[マルタ会談]]による[[冷戦]]終結後の[[1990年]][[5月16日]]にカラシニコフは渡米して[[M16自動小銃]]の設計者である[[ユージン・ストーナー]]と初めて対面した。二人は数日間、語り合い、買い物や夕食をともにするなどして親交を結んだ<ref>{{Cite web|title=KALASHNIKOV AND HIS GUN VISIT AMERICA|url=https://erenow.
▲[[ソビエト社会主義共和国連邦]]解体後の[[1998年]]には、
AK-47はシンプルな設計で量産に向いていたこと、「どんなに乱暴に扱われても壊れない」「グリスが切れようが水に浸かろうが砂に埋めようが、まだ撃てる」と言われるほどの並外れた耐久性を備えていたことから、旧共産圏をはじめ、[[発展途上国]]でライセンス生産品やその改良型、[[コピー商品]]が横行した。[[2009年]][[11月10日]]、カラシニコフは90歳の誕生日を迎え、[[モスクワ]][[クレムリン]]で[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドベージェフ]]大統領から[[ロシア連邦]]では最高位の勲章「[[ロシア連邦英雄]]」を授与されたが、式典の際、AK-47が犯罪、[[テロリズム]]、紛争で用いられることが多い事実について、「私は母国の領土を守るための武器をつくった。時に不適切な場所で使われたこともあるが、それは私の責任ではない。政治家の責任だ」と事実上の批判をしている<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3005550?pid=12852386 AK47の設計者、カラシニコフ氏死去]AFPBB2・2013年12月24日、2013年12月24日観覧。</ref><ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/131224/erp13122422080003-n2.htm |title=「世紀の銃」発明・カラシニコフ氏 「控えめな人だった」 |accessdate=2014-08-02 |date=2013-12-24 |newspaper=MSN産経ニュース}}</ref>。[[中華人民共和国]]によるAK-47のコピー商品生産にも「中国はライセンス切れにもかかわらず、ロシア政府や関係者にことわりなくAKの生産を続けている。彼らは、買い手さえあればどこにでも売る。それがAKの評価を落とすことになる。開発者としてはきわめて不愉快なことだ」と嫌悪感を隠していない<ref>朝日文庫 [[松本仁一]]著:カラシニコフII (ISBN 9784022615756) 140ページ</ref>。また、[[少女]]が軍人に扮している[[日本の漫画]]『[[魔法の海兵隊員ぴくせる☆まりたん]]』のために、刊行元の[[ホビージャパン]]がサインを貰いに行った際には「[[子供]]に[[銃]]を持たせちゃいかんよ!」とコメントしている<ref>{{Cite web|url=http://pixel-maritan.net/maritan_diary/?m=20060817|title=まりたん日記 » 2006 » 8月 » 17|website=まりたん日記|date=2006-08-17|accessdate=2022-06-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224151149/http://pixel-maritan.net/maritan_diary/?m=20060817|archivedate=2013-12-24}}</ref>。▼
▲AK
彼の息子である[[:en:Victor Kalashnikov|ヴィクトル・M・カラシニコフ]]も武器の設計を手がけている。AK74を代替する次期主要小銃を選定する「[[AN-94#アバカンプロジェクト|アバカンプロジェクト]]」で試作銃を設計しコンペに出品するが、後に制式採用される[[:en:Gennadiy Nikonov|ゲンナジー・ニコノフ]]設計の[[AN-94]]に敗退している。その後、[[エフゲニー・F・ドラグノフ]]の息子であるアレクセイ・E・ドラグノフと共同で短機関銃の[[PP-19_Bizon|PP-19 ビゾーン]]を設計し、これは[[1996年]]に[[ロシア内務省]]に採用された他、輸出もされている。
=== ウォッカと時計 ===
[[2004年]]、カラシニコフは「カラシニコフ」[[ブランド]]の[[ウォッカ]]を売り出した<ref>{{Cite news|title=Kalashnikov 'wanted to be poet and more'|publisher=BBC World News 74|date=2009-11-10|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8353427.stm|access-date=2009-11-11}}</ref>。テレビ[[インタビュー]]でなぜウォッカに[[銃]]と同じ名前をつけたかと聞かれ、「私はいつも著名な自分の銃の名前を良いことをすることで広め、向上させたいと思っている」と答えている。
[[2005年]]には[[時計]]の[[ブランド]]として「カラシニコフ・ウォッチ」を立ち上げている。ブランドキーワードは『[[自由]]({{en|LIBERTAD}})』、『[[正義]]({{en|JUSTICE}})』、『[[団結]]({{en|SOLIDARIDAD}})』、『[[独立]]({{en|INDEPENDENCE}})』そして『[[平和]]({{en|PEACE}})』。デザインコンセプトとして、旧ソ連の象徴である[[赤い星]]を使用しており、全てのケースバックには[[ロシア語]]で「[[テロリズム]]のない自由な[[人生]]を」というメッセージが刻印されている。
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=== 晩年 ===
[[File:В последний путь.JPG|thumb|カラシニコフの葬列(2013年12月26日、イジェフスク市内)]]
2012年、カラシニコフは[[イジェフスク]]にある3LDKのアパートで、孫と二人で暮らしていた。兵器会社である[[イジェフスク機械製作工場|
2013年4月、[[ロシア正教会]]のトップである[[キリル1世 (モスクワ総主教)|キリル総主教]]に対し書簡を送り、自ら開発したAK
2013年11月17日から胃の出血のため[[イジェフスク]]市内の病院に入院し、同年12月23日に死去した<ref name="sponichi20131224" />。満94歳。遺体はモスクワの北東にある{{仮リンク|連邦軍人記念墓地|ru|Федеральное военное мемориальное кладбище}}に埋葬された。
== 映画・テレビ番組 ==
*
* [[映像の世紀 バタフライエフェクト]] カラシニコフ銃1億丁 史上最悪の殺人兵器<ref>{{Citation|title=カラシニコフ銃1億丁 史上最悪の殺人兵器 - 映像の世紀バタフライエフェクト|last=日本放送協会|url=https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/LPJGMPP336/|language=ja|access-date=2024-05-21}}</ref> ([[2024年]][[5月20日]]、[[NHK総合テレビジョン]])
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[松本仁一]]
|year = 2004
|title = カラシニコフ
|publisher = [[朝日新聞社]]
|isbn =4022579293
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[松本仁一]]
|year = 2006
|title = カラシニコフII
|publisher = 朝日新聞社
|isbn =4022501650
}}
*{{Cite book|和書
|author = エレナ・ジョリー
|authorlink = :fr:Elena Joly
|others = [[山本知子]](訳)
|year = 2008
|title = カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男
|publisher = [[朝日新聞出版]]
|isbn = 9784022732064
|ref={{SfnRef|ジョリー|2008}}
92 ⟶ 113行目:
|year = 2014
|title = AKライフルの軌跡 追悼 ミハエル・カラシニコフ
|publisher = [[ホビージャパン]]
|isbn = 9784798607702
|ref={{SfnRef|ホビージャパン|2014}}
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* [http://www.amazon.com/Gun-that-Changed-World/dp/0745636926 Mikhail Kalashnikov with Elena Joly: The Gun that Changed the World]
* [http://roshianow.jp/society/2014/01/22/46811.html カラシニコフ氏がキリル総主教に書簡]ロシアNOW
* [https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/blog/bl/pwNd0m2dAp/bp/p8gDwKaNgo/ 銃が悪いのか、それとも人間が悪いのか NHK]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:からにしこふ みはいる}}
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