「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」の版間の差分
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[[SPレコード]]時代である[[フェリックス・ヴァインガルトナー]]の1935年の録音は62分程度、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の1939年の録音は60分強だが、LP時代に入って話題になった[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の[[バイロイト音楽祭]]での録音は75分弱である。[[LPレコード]]時代でも[[ルネ・レイボヴィッツ]]、[[ヘルマン・シェルヘン]]らはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮者界の中では異端であり、全体の時間は1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするもの{{Efn|[[カール・ベーム]]が最晩年の1980年に録音した演奏は18:34/13:22/18:15/28:35で78分を超える。}}まであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる<ref>[https://archive.is/RxSDw PRESTO CLASSICAL] - [[クリスティアン・ティーレマン]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]</ref>。
CD開発時のエピソードとして「通常の[[コンパクトディスク|CD]]の記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにと
CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。まず、[[デイヴィッド・ジンマン]]が1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115144244/https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51ecqaha7PL._SX450_.jpg|title = Symphony No.9 |publisher = images-na.ssl-images-amazon.com |date = |accessdate = 2019-11-15 }}</ref>。{{仮リンク|ベンジャミン・ザンダー|en|Benjamin Zander}}指揮{{仮リンク|ボストン・フィルハーモニー管弦楽団|en|Boston Philharmonic}}による演奏は全曲で57分51秒であった。同じくザンダーの指揮によって[[フィルハーモニア管弦楽団]]を振った演奏は全曲で58分37秒<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070324/https://www.gramophone.co.uk/review/beethoven-symphony-no-9-zander|title = BEETHOVEN Symphony No 9 (Zander) |publisher = www.gramophone.co.uk |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>、[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]]と[[BBCウェールズ交響楽団]]とのライブ演奏<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070428/https://www.allmusic.com/album/release/beethoven-symphony-no-9-choral-mr0002739122|title = Beethoven: Symphony No. 9 "Choral" |publisher = www.allmusic.com |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏がある<ref>[[クリスチャン・ヤルヴィ]]指揮[[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]] King International KKC-5119 (59分44秒)</ref>が、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。
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初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は[[倍管|倍の編成]](木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集した[[ジョナサン・デル・マー]]は「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる{{Efn|楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[マタイ受難曲]]における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。}}。
参加者の証言によると、第九の初演は[[リハーサル]]不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。[[ソプラノ]]ソロの[[ヘンリエッテ・ゾンターク|ゾンターク]]は18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた{{Efn|これはベートーヴェンに限った問題ではなく、クレメンティも自作の交響曲の際にピアノを用い、ピアノの音とオーケストラの音が度々ずれると記録が残されている
一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正[[指揮者]]として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった{{Sfn|中川|2011|p=46}}。見かねたアルト歌手の[[:en:Caroline_Unger|カロリーネ・ウンガー]]がベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができた。という逸話がある{{Sfn|中川|2011|p=46}}。観衆が熱狂し、[[アンコール]]では2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている{{Sfn|中川|2011|p=47}}。
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彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。
徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである{{Efn|ワーグナー改変版は販売されなかったが、ピアノ編曲版が販売された
=== 日本初演 ===
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| alt2 = 板東俘虜収容所の正門《「阿波大正浪漫 バルトの庭(既に閉園)」で再現させたもの》
}}
[[第一次世界大戦]]において日本は対独参戦してアジア太平洋地域の[[ドイツ帝国]]拠点を攻撃し、多数の[[日独戦ドイツ兵捕虜|捕虜]]を得た。[[1918年]]([[大正]]7年)[[6月1日]]に、[[徳島県]][[板東町]](現・[[鳴門市]])にあった[[板東俘虜収容所]]で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている<ref>{{Cite web |url=https://ontomo-mag.com/article/column/beethoven-9th-symphony2024/ |title=《第九》が年末に演奏される理由とは?《第九》トリビアを紹介! |access-date=2024年11月15日閲覧 |publisher=音楽之友社}}</ref>。この事実は[[1941年]]([[昭和]]16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた[[徳川頼貞]]が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、[[1990年代]]([[平成]]2年)になって脚光を浴びた。映画『[[バルトの楽園]]』(出演:[[ブルーノ・ガンツ]]、[[松平健]]ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、[[ファゴット]]と[[コントラファゴット]]が無かったので、[[オルガン]]で代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された<ref>[https://web.archive.org/web/20120426221648/http://www.topics.or.jp/localNews/news/2012/04/2012_133524563153.html 捕虜作成の測量図「正確」 板東収容所跡調査まとめ]『[[徳島新聞]]』2012年4月24日《2017年4月22日閲覧;現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存》</ref>。鳴門市では日本における『第九』初演を記念して毎年6月の第一日曜日を「第九の日」に制定して定期演奏会を開催している<ref>{{Cite journal |和書|title=『鳴門の第九』というブランド |date=2011-07-01 |publisher=鳴門市秘書広報課 |journal=『広報なると』 |issue=723 |pages=1-7 |url=http://www.city.naruto.tokushima.jp/_files/00061070/201107.pdf |format=PDF |accessdate=2017-04-22 |quote=全7頁構成。4頁目左上『第1回鳴門「第九」演奏会』欄中に「第九の日」制定に至る経緯に関する記述有}}《{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20170421234433/http://www.city.naruto.tokushima.jp/_files/00061070/201107.pdf →アーカイブ]}}》</ref>。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、[[鳴門市ドイツ館]]前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180603/ddl/k36/040/335000c|title=第九 鳴門で初演100周年 再現に喝采 歓喜の歌声響く|newspaper=『[[毎日新聞]]』|date=2018-06-03|accessdate=2018-06-05}}{{リンク切れ|date=2024年4月}}</ref>。
『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には捕虜のうち45人でつくる「徳島オーケストラ」による収容所内の定期演奏会の曲目の一つで、日本人は招かれていない<ref name="朝日20201219">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14734007.html 【はじまりを歩く】ベートーベンの第九(徳島県、東京都、大阪府)捕虜の声響く 日本初演の地/「生」への賛歌 時代を超えて][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年12月19日(6-7面)2020年12月31日閲覧</ref>。これを記念して、収容所の記念施設である[[鳴門市ドイツ館]]隣の[[道の駅]]は「[[道の駅第九の里|第九の里]]」と命名されている<ref name="朝日20201219"/>。
[[1919年]](大正8年)12月3日、[[福岡県]][[久留米市]]の久留米高等女学校(現・[[福岡県立明善高等学校]])に[[久留米俘虜収容所]]に収容されていたドイツ兵捕虜オーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学校の教師や女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている<ref name="asahi">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASLDT3Q0VLDTTIPE00P.html|title=大正時代の第九、楽譜見つかる 演奏10分の詳細が判明|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2018-12-30|accessdate=2020-11-29}}{{リンク切れ|date=2024年4月}}</ref>。2日後の12月5日、久留米俘虜収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた<ref>{{Cite web|和書
[[1924年]](大正13年)1月26日、[[九州大学|九州帝国大学]]の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の[[九大フィルハーモニーオーケストラ]])が当時の[[摂政宮]](後の[[昭和天皇]])の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の[[文部省]]が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』の[[メロディ]]にアレンジしたものだった。また、第4楽章が通して演奏されたのではなく、合唱を伴う部分を抜粋したものだった<ref name="asahi"/>。このため、これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。
日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]([[東京芸術大学]]の前身の一校)のメンバーがドイツ人[[教授]][[グスタフ・クローン]]の指揮によって演奏したものだとされている<ref>{{Cite journal|date=2024-12-17|title=100年前日本人初演「第九」の楽譜:紀州の「音楽の殿様」収集資料から発見|journal=毎日新聞|page=17}}</ref>。同年12月にも追加公演された<ref name="朝日20201219"/>。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]]の前身)により[[1927年]](昭和2年)[[5月3日]]に行われた。
東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の[[埴谷雄高]]が、「演奏中に[[コンサートマスター|コンサートミストレス]]の[[安藤幸]]([[幸田露伴]]の妹。姉の[[幸田延]]ともども「[[上野]]の[[西太后]]」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。
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[[1940年]](昭和15年)12月31日午後10時30分、[[紀元二千六百年記念行事]]の一環として、[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]が新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])を指揮して『第九』の[[ラジオ]]生放送を行った。これを企画したのは当時、[[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]]の洋楽課員だった[[三宅善三]]である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として[[大晦日]]に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところでは[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより "深夜に演奏してそのまま新年を迎える" といった勘違いをしたのではないかと思われる。
日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、[[第二次世界大戦]]後間もない[[1940年代]]後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時([[クラシック音楽]]の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる{{Sfn|金・玉木|2007|p=204}}。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう{{Efn|[[黒柳徹子]]は父の[[黒柳守綱]](新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元[[コンサートマスター]])から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している
{{要出典|date=2024年2月23日 (金) 13:32 (UTC)|このほか、[[1943年]][[12月]]に[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]][[学徒出陣]]壮行会で演奏され、その4年後の[[12月|1947年]][[12月30日]]に戦地から生還した学生たちが[[日比谷公会堂]]で演奏して戦争で命を落とした仲間たちの追悼式としたことが大きな反響を呼んだことで定着した、とする説もある。}}
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[[1918年]]、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時は[[ライプツィヒ]]の郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部である[[ゴーリス]]という土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの『第九』は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時)。
第二次世界大戦でドイツ本土は激しい[[空襲]]に晒され、1944年、ライプツィヒのコンサートホール「[[ゲヴァントハウス]]」は戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されると[[クルト・マズア]]は生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーヴェンの『第九』を選んだ。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]崩壊後の統一ドイツではMDR([[中部ドイツ放送|中部ドイツ放送協会]])が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立された。それ以来、毎年の大晦日の午後
=== フルトヴェングラーと第九 ===
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=== ドイツ分断と第九 ===
[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に東西ドイツが統一選手団を送ったときに、第4楽章の第一主題「[[歓喜の歌]]」が国歌の代わりに歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。
[[1989年]]の[[ベルリンの壁崩壊]]直後の年末に[[レナード・バーンスタイン]]が、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ソビエト連邦|ソ連]])のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。また、翌年の[[ドイツ再統一]]のときの統一前夜の祝典曲として[[クルト・マズア]]指揮の[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が[[ライプツィヒ]]で演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルの[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団#ジルヴェスターコンサート|ジルベスターコンサート]]に対抗して演奏されTV中継されている。
=== サントリー1万人の第九 ===
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'''Molto vivace [[ニ短調]] 4分の3拍子 - Presto [[ニ長調]] 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto'''
[[複合三部形式]]をとる[[スケルツォ]]楽章である。スケルツォ部分だけで[[ソナタ形式]]をとる。提示部、展開部・再現部ともに反復指定あり
:<score %vorbis="1"%>
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==== 歓喜の歌 ====
{{main|歓喜の歌}}
[[フリードリヒ・フォン・シラー]]が[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の理念を書いた<ref>{{Cite web |url= http://www.freimaurer-in-essen.de/cms/index.php?option=com_content&task=view&id=34&Itemid=39|title= VIII. Die "Ode an die Freude"|work= Unser Namenspatron|publisher= Freimaurerloge 'Schiller' (unter der [[:de:Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland|Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland]])|accessdate=2013-08-19 |url-status=dead|url-status-date=2024-04}}</ref>詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté [[1785年]])が[[フランス革命]]の直後『[[ラ・マルセイエーズ]]』のメロディーでドイツの学生に歌われていた<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kamei/sam_texte/let_3b_symphonie.pdf|title= Symphonie zum Frieden 平和の交響曲|format= PDF|publisher= [[大阪教育大学]] [[亀井一|亀井]]研究室|accessdate=2013-08-19}}</ref>。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(''An die Freude'' [[初稿1785年、改稿1803年]])にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として[[1822年]]から[[1824年]]に書き直したものである。
「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である[[1808年]]の『[[合唱幻想曲]]』作品80と、[[1810年]]の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。
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イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デル・マーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し{{Efn|その研究を参考に音楽学者・指揮者の[[金子建志]]も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。}}、この研究は楽譜化されて[[1996年]]に[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター社]]から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にもない音形が数多く表れている点もこの版の特徴である{{Efn|この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デル・マー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デル・マー版の知名度を大いに上げたのは[[クラウディオ・アバド]]指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤(1996年)や[[デヴィッド・ジンマン]]指揮の[[チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団]]盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照して新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だったが、これらはほとんど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている。}}。
21世紀に入って、旧ベートーヴェン全集の出版社である[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|ブライトコプフ社]]もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデル・マーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている{{Efn|例えば先述の第4楽章330小節について、デル・マーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。[[クルト・マズア]]らが参照している)に従い、'''合唱以外の全楽器にデクレッシェンド'''をつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の[[朝比奈隆]]にインタビューした際「[[楽音|噪音]]の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、また[[フランツ・リスト|リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]によるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している
なお、かつて[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]で[[1986年]]秋に放送された『[[NHK趣味講座]] 第九をうたおう』では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した[[井上道義]]は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からの第1ヴァイオリンのパートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際、史料状況や編曲の実態について解説したのは[[金子建志]]であった。
615 ⟶ 604行目:
* 交響曲
** [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]] - '''交響曲第9番''' - [[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番(未完成)]]
==注釈==▼
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
▲=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
664 ⟶ 653行目:
* [http://beethoven.staatsbibliothek-berlin.de/ ベートーヴェンの交響曲第9番の手書譜] - Die Staatsbibliothek zu Berlin – Preußischer Kulturbesitz (Berlin State Library – Prussian Cultural Heritage)
* [http://www.dlib.indiana.edu/variations/scores/cab4188/large/index.html ベートーヴェンの交響曲第9番の総譜 (HTML)] - IUDLP: The Indiana University Digital Library Program
* [
* [[choralwiki:Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 (Ludwig van Beethoven)|ベートーヴェンの交響曲第9番の合唱総譜 (PDF)]] - CPDL: The Choral Public Domain Library
* [https://musopen.org/ja/music/2571-symphony-no-9-in-d-minor-op-125/ Symphony no.9 in D minor, Op.125] - 『[[Musopen]]』より
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