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「宇喜多詮家」の呼称に関する批判を追記。
 
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| 画像 = Sakazaki Naomori.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 坂崎直盛像(個人蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[永禄]]6年([[1563年]])※諸説あり
| 死没 = [[元和 (日本)|元和]]2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1616年]][[10月21日]])
| 改名 = 浮田知家→宇喜多詮家→浮田詮家正勝→坂崎直盛
| 別名 = 知家、直行、重長、信顕、<br />正親、正勝、貞盛、成正{{Sfn|宇神|2011|p=33}}、成政{{Sfn|宇神|2011|p=33}}
| 霊名 = パウロ
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| 特記事項 =
}}
'''坂崎 直盛'''(さかざき なおもり) / '''宇喜多 詮家'''(うきた あきいえ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[宇喜多忠家]]の子。[[宇喜多直家]]の甥にあたる。[[宇喜多秀家]]に仕えた後に[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]の功により[[津和野城]]主となって'''坂崎'''と改姓。同時代史料に見える名前は「'''浮(田)左京知家'''」「'''宇喜多左京正勝'''」であり、「宇喜多詮家」の名は『[[備前軍記]]』に由来する俗説である<ref>{{Cite book|和書 |title=宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性 |date=2020-9-16 |year=2020 |publisher=平凡社 |ref=harv |last=大西 |author=大西泰正 |first=泰正 |series=中世から近世へ |isbn=978-4-582-47749-8 |pages=21-26}}</ref>
 
== 生涯 ==
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文禄5年([[1596年]])、詮家は自身の屋敷にイエズス会の宣教師を招き、同僚の[[明石全登]]への宣教を依頼し、[[松田毅一]]の推定{{Sfn|松田|1953}}によると同年末か翌年初頭、大西泰正の推定{{Sfn|大西|2015|p=96}}{{Sfn|大西|2019|p=166}}によると同年10月までに全登は受洗したという。同年10月に秀吉によって再度[[禁教令]]が発布され、京都や大坂の多くのキリシタンが捕縛され[[長崎市|長崎]]へ送られて処刑されたが([[日本二十六聖人|長崎二十六聖人殉教事件]])、この禁教令が発布された直後、詮家・全登は大坂の教会を訪れて2人のイエズス会の宣教師を説得して退避先に逃がしたというエピソードがある。
 
詮家は従弟の宇喜多秀家に仕えて、2万4000石の[[知行]]を与えられていたが、折り合いが悪かった。そのため[[慶長]]5年([[1600年]])1月に宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君の宇喜多秀家と対立することとなる。[[徳川家康]]の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与して本戦に参加し、戦後その功により[[石見国|石見]][[浜田藩|浜田]]2万石を与えられ、後に同国[[津和野藩|津和野]]に3万石(のち[[大坂の陣]]の功により加増され4万石)を与えられ、津和野藩を立藩した。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降'''坂崎直盛'''と名乗るようになった。
 
=== 千姫事件 ===
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])の大坂夏の陣による[[大坂城]]落城の際に、家康の孫娘で[[豊臣秀頼]]の正室である[[千姫]]を大坂城から救出した。その功により、1万石を加増されて4万石となったが、この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、いる。これが千姫事件と呼ばれる。
 
この千姫事件については、様々な説がある。
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{{quotation|1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。}}
 
とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(石見の中村家や加賀の三宅家など、出羽守の子孫と伝わる家も存在する。浜田藩士坂崎十兵衛、金澤藩中三宅一兵衛、日原村瀧元の坂崎氏等其後流と稱せらる。十兵衛、寛文九年浜田藩勘定頭。[https://dl.ndl.go.jp/pid/912415/1/66])。
 
関ヶ原の戦いに敗れ、改易された[[出羽国|出羽]][[横手城]]主の[[小野寺義道]]は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)。
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* {{Citation|和書|last=大西|first=泰正|year=2019|month=9|title=「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家|series=[[角川新書]]|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=9784040822877}}
 
== 関連作品 ==
{{津和野藩主|坂崎家||1601年 - 1616年}}
* [[海音寺潮五郎]] - 『坂崎出羽守』([[文春文庫]]『豪傑組』収録)
 
== 外部リンク ==
* {{コトバンク}}
 
{{津和野藩主|坂崎家||16011600年 - 1616年}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さかさき なおもり}}