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森造 (会話 | 投稿記録)
 
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 織田信広 / 津田信広
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = {{sup|[一説に]}}[[享禄]]年間([[1528年]]-[[1531年]])か、享禄4年から[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])頃
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[天正]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]([[1574年]][[10月13日]])
| 改名 = 信広
| 別名 = 三郎五郎信廣通称旧字、信廣、津田信広、<br/>[[仮名 (通称)|通称]]:三郎五郎、大隅守
| 戒名 = 大龍寺殿寛巌大居士{{sfn|岡田|1999|p=115}}
| 霊名 =
| 墓所 = [[京都市]][[上京区]][[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]]([[京都市]][[上京区]])
| 官位 = [[従五位|従五位下]]大隅守<ref>{{Citation |和書|author=[[堀田正敦]]|editor=|year =1923|chapter=織田氏|title =[[寛政重脩諸家譜]] 第3輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082714/286}} 国立国会図書館デジタルコレクション|page=555}}</ref>
| 官位 = 大隅守
| 主君 = [[織田信秀]]、[[織田信長|信長]]
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[織田氏]]
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| 兄弟 = '''信広'''、[[織田信長|信長]]、[[織田信行|信行]]、[[織田信包|信包]]、[[織田信治|信治]]、[[織田信時|信時]]、<br />[[織田信興|信興]]、[[織田秀孝|秀孝]]、[[織田秀成|秀成]]、[[織田信照|信照]]、[[織田長益|長益]]、[[織田長利|長利]]
| 妻 =
| 子 = 深光院([[桂峯院|深光院]])([[丹羽長秀]]正室)、恭姫([[織田信正]]室)、千代君([[六角義秀]]室、信長養女
}}
 
'''織田 信広'''(おだ のぶひろ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[尾張国|尾張]]の[[戦国大名]]である[[織田信秀]]の[[庶|庶長子]]で、[[織田信長]]の異母。[[三河国|三河]][[安祥城]]主。[[仮名 (通称)|通称]]は三郎五郎、後に大隅守
 
== 生涯 ==
信秀の第一子で、生母は[[側室]]であり、母親の出自は不明である{{sfn|西ヶ谷|2000|p=227}}。『系図纂要』では母親を「家女」としており<ref name="ks">{{Cite web|和書|url=https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/1200/48/0190?m=all&n=20|title=『系図纂要』|publisher=東京大学史料編纂所 |accessdate=2022-11-28}}</ref>、生母の身分が低かったため「信長御舎兄」ながらも織田弾正忠家の親族衆の扱いで、しばしば'''津田信広'''とも表記された。
=== 生誕から信秀存命中まで ===
信秀の[[長男]]であるが、生母が[[側室]]という立場から家督の相続権はなかったらしく、母親の出自も不明である。一般にも「信長の兄」とは認識されておらず、織田弾正忠家の一族扱いであった。生年は不詳だが、信長が10代前半の頃には既にそれなりに軍事的にも重要な役割を任されており、ある程度は年が離れていたと推測される。また『[[信長公記]]』の記述から、[[織田信時]]は同母弟でないかと見られている。
 
生年は不明だが、[[谷口克広]]は、「[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])生まれの信長よりも5、6歳は年長であろう」としている{{sfn|谷口|1995|p=120}}。
[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])3月に起こった第二次[[小豆坂の戦い]]では先鋒を務める<ref>『三河物語』。</ref>。しかし小豆坂を登る時に今川先鋒の松平勢と鉢合わせしてしまい、応戦するも劣勢に立たされたために信秀本隊が陣を張る盗木の付近までひとまず退き、本隊と合流して松平勢を退ける。その勢いに乗り信秀らは攻勢に出るも、今度は今川の伏兵の[[岡部長教]]らが本隊を突いたことにより総崩れとなり大敗を喫する。この敗北により、織田軍は安祥城へと敗走を余儀なくされ、信秀は安祥城の守備を信広に任せて尾張へと帰還した。
 
また『[[信長公記]]』の記述から、男色絡みの恨みで家老の[[角田新五]]に攻められて切腹した[[織田信時|信時(秀俊)]]は、信広の同母弟だったのではないかと考えられている{{sfn|谷口|1995|pp=122-123}}。
天文18年([[1549年]])3月に[[安祥城]]の守備を任されていた信広は、[[今川義元]]の配下の[[太原雪斎]]率いる今川・松平連合軍2万の侵攻を受け、追い詰められるが深入りした先鋒の[[本多忠高]]を討ち取り、浮き足だった今川軍に対して城より打って出て撃退に成功する(第三次[[安城合戦]])。しかし同年11月、再度雪斎に城を攻められた際には、[[平手政秀]]などが援軍に遣わされるも耐え切れず安祥城は陥落、今度は生け捕りにされてしまう(第四次安城合戦)。後に、織田家の人質となっていた松平竹千代([[徳川家康]])との人質交換という形で織田家へ送還される。三河支配の橋頭堡たる安祥城の陥落に加えて、この人質交換の交渉により、織田家の三河における求心力は大きく後退する結果となった。
 
信広は父信秀の西三河進出に従って若い頃から転戦した。
=== 謀反 ===
[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])、信広は[[美濃国|美濃]][[稲葉山城]]の[[斎藤義龍]]と組んで謀反を画策する。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清洲より出陣し、後詰めに信広が[[清洲城]]に入り、居留守役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。信広はこれを利用して、清洲城の北に義龍が布陣して撃退するべく信長が出陣した時にいつも通り後詰めとして清洲入りし、応対に出てくるであろう佐脇を殺害して清洲城を乗っ取り、成功すれば狼煙を上げて清洲城の信広と義龍とで信長を挟撃するという作戦を立てる。
 
天文17年([[1548年]])、第二次[[小豆坂の戦い]]では信広(三郎五郎)は先鋒を務めたが、小豆坂で駿河衆(今川勢)と鉢合わせしてしまい、しばらく戦ったが劣勢であったので、信秀本陣があった盗木の付近までひとまず退いた。本隊と合流して盛り返した織田勢は、駿河衆を小豆坂まで押し返したが、そこで伏兵([[岡部元信|岡部長教]])に遭って再び苦戦。信秀はその後も攻撃を続けて二度撃退され、味方の損害が多いというので兵を引き上げ、駿河衆が勝鬨をあげた。織田勢は安祥城へと退き、信秀は信広を安祥城の城主として守備に任せて[[清洲城|清須城]]へと帰還した{{sfn|三河物語|1912|p=161}}。{{see also|[[小豆坂の戦い#第二次合戦|第二次小豆坂の戦い]]}}
しかしこの計画は事前に信長に漏れ、清洲城から義龍を迎え撃つために出撃した際に佐脇に決して城を出ないことと、町人に惣構えで城戸をさし堅め信長帰陣までいかなる人間も入れぬようにと厳命していた。この時に限って佐脇に入城を頑なに拒まれた上に警戒体制の城下の様子を見て、信広は謀叛の失敗を悟り慌てて兵を返し、いつまでも狼煙が上がらぬことで、義龍も信広が清洲城の乗っ取りに失敗したことを察し、戦わず美濃へと引き上げた。それから信広は叛意を露にして信長と敵対し、小規模な戦闘をたびたび起こしたがいずれも退けられ、ほどなくして降伏した。この時、信長は信広を赦免している<ref>『信長公記』巻首19段、「三郎五郎殿御謀叛の事」</ref>。
 
天文18年([[1549年]])3月19日、信広の守る安祥城は、[[今川義元]]の名代[[太原雪斎]](崇孚)と[[朝比奈泰能]]らを将とする駿河・遠江・三河の三カ国の大軍に攻められた<ref name="s294">史料綜覧9編910冊294頁.</ref>。しかし深入りした(三河衆の)先鋒の[[本多忠高]]が、弓の名手だった前島伝次郎に射殺されるなど、寄せ手は死傷者が多かったので、雪斎は兵を退いた{{refnest|『東照宮年譜附尾』による<ref name="s294"/>。}}。{{see also|[[安城合戦#第三次安城合戦|第三次安城合戦]]}}
=== 上洛後 ===
以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家[[連枝]]衆の中ではまとめ役的な存在であったという<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|title=信長の親衛隊|publisher=中央公論新社|year=1998}}</ref>。織田家が上洛を果たした[[永禄]]12年([[1569年]])から[[元亀]]元年([[1570年]])頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から[[室町幕府]]、[[公家]]との折衝役を任され、[[山科言継]]、[[吉田兼見]]、[[一条内基]]らと交友を持った<ref>『言継卿記』、『兼見卿記』など。特に吉田兼見は信広が病気の際に見舞いに訪れるなど親しい間柄であった。</ref>。元亀元年(1570年)の[[比叡山]]焼き討ち、[[元亀]]3年([[1572年]])の[[岩村城]]救援などにも参戦した。[[天正]]元年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1573年]][[5月18日]])には、織田家と不和になっていた[[足利義昭]]と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている<ref>『信長公記』、『言継卿記』</ref>。
 
同年11月9日、義元は再び雪斎を出陣させて、安祥城を攻め落とさせ、信広を生捕りにした<ref>史料綜覧9編910冊305頁.</ref>。信長<ref>『改正三河後風土記』は織田信秀の没年を天文18年3月3日と誤認しており、同記は信長とするが、大将は信秀の誤りかもしれないし、晩年は長く病を患っていたことがわかっているので、出陣したのはやはり当主となる前の信長だったのかもしれない。</ref>が率いる後詰が[[鳴海砦]]まで前進していたが、黒煙が上がるのをみて落城を知って兵を退いた{{sfn|成島司直|1886|p=325}}。雪斎は織田勢の先鋒の[[林秀貞|林佐渡守]]と[[平手政秀]]に手紙を送って、「安祥城はすでに落城し、三郎五郎信広は切腹しようとするところを先程捕らえたが、そちらが捕らえている竹千代([[徳川家康]])と人質替えをしよう」と持ちかけると、信長は大いに喜び早速快諾したので、10日、[[萬松寺]]天王坊に幽閉されていた竹千代は[[織田秀敏|織田玄蕃]]と[[織田広良|織田勘解由左衛門]]に付き添われ、信広をつれた岡崎の三河衆とで人質交換が行われた{{sfn|三河物語|1912|p=164}}{{sfn|成島司直|1886|p=326}}。
[[天正]]2年([[1574年]])、最後の[[長島一向一揆|伊勢長島一向一揆]]攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、[[願証寺|長島願証寺]]が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた[[顕忍|願証寺顕忍]]や[[下間頼旦|三位法橋]]は弾丸に斃れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に[[大木兼能]]([[佐々宗淳]]の外祖父)と[[一騎討ち]]となり、信広は討ち死にしたという。
 
西三河支配の橋頭堡だった安祥城の陥落に加えて、松平家の世継ぎの帰還により同家の勢いが増したことで、織田家の三河における求心力は大きく後退した。
 
天文21年(1552年)に信長が織田家の家督を継ぐと、信広は異母弟に仕えることになった{{sfn|谷口|1995|p=120}}。
 
年次はよくわからないが、信長に[[織田信行]](信勝)が反旗を翻した年と同じとして、[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])頃{{sfn|岡田|1999|p=115}}、信広は[[美濃国|美濃]]の[[斎藤義龍]]と組んで清洲城を乗っ取ろうと謀反を画策した{{sfn|谷口|1995|p=120}}。「敵が攻め寄せると信長はいつも軽々しく出陣し、(後詰めに)信広が出陣して清洲の町中を通れば、留守居役の佐脇藤右衛門<ref>[[佐脇良之]]の養父。</ref>が必ず町まで出てきて接待をする。次の機会にはその時に佐脇を殺害して、混乱に乗じて清洲城を乗っ取り、合図の狼煙をあげるので、すぐに美濃勢は川を渡って近くまで攻め込めばいい。信長の味方のふりをして信広も出撃して、合戦になったら背後から攻める」と謀議して密約した<ref name="cinto">{{Citation|和書|author=太田牛一|authorlink=太田牛一|translator=[[中川太古]]|title=現代語訳 信長公記|publisher=[[中経出版]]|series=新人物文庫|year=2013|isbn=978-4046000019|ref={{sfnref|太田|中川|2013}}|pages=47-48}}<br/>{{Citation |和書|last=|first=|editor=[[近藤瓶城]] |year=1926|series=史籍集覧| volume=第19|title =信長公記|publisher=近藤出版部|url={{NDLDC|1920322/73}} 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=27-28}}</ref>。しかし美濃勢がいつもより気合を抜いた様子で川岸付近に接近してきたとの報告を受けた信長は「さては家中に謀叛があるのだな」と見抜き、佐脇には城を絶対に出ないように命じ、町人も総構えを警備し、城門を閉めて、信長が帰陣するまで人を入れないように厳命して出陣した。信長出陣を聞いて、信広は手勢を残らず率いて清洲城に向かったが、信広到着を申し入れても入城を拒まれたため、謀叛が知られたかと不審に思って急いで撤退した。このため美濃勢も退去して、信長も帰陣した<ref name="cinto"/>。
 
信長は信広を赦免しているが、経緯は不明。信行の謀叛の終息後、家臣団すべてに与えられた赦免を受けたと考えても矛盾はないだろう。
 
以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家[[連枝]]衆の中ではまとめ役的な存在であったという<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|title=信長の親衛隊|publisher=中央公論新社|year=1998}}</ref>。
 
[[永禄]]11年([[1568年]])9月の信長が上洛戦に従軍した{{sfn|岡田|1999|p=115}}。翌年から[[元亀]]元年頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から[[公家]]と将軍[[足利義昭]]との折衝役を任された{{sfn|谷口|1995|p=120}}。この頃、受領名を大隅守として、津田三郎五郎を称した{{sfn|西ヶ谷|2000|p=228}}。
 
永禄12年([[1569年]])3月、信広は[[菅屋長頼]]・[[飯尾尚清]]・[[大津長昌|大津長治]]とともに、岐阜下向の[[山科言継]]より訪礼されている{{sfn|谷口|1995|p=214}}。
 
元亀元年([[1570年]])9月25日、南[[近江国|近江]]での浅井・朝倉氏との対峙において、比叡山を包囲するために、信広と[[三好為三]](政勝)・[[香西元成|香西越後守]]は、将軍義昭の軍勢と一緒に、[[山城国]]の[[将軍山城|勝軍城]](勝軍山城、将軍地蔵山城、北白川城)に置かれた{{sfn|谷口|1995|p=120}}{{sfn|岡田|1999|p=115}}{{sfn|西ヶ谷|2000|p=228}}{{sfn|太田|中川|2013|p=92}}{{sfn|近藤瓶城|1926|p=70}}。{{see also|志賀の陣}}
 
元亀3年([[1572年]])10月、武田の将[[秋山虎繁]]に攻められた[[岩村城]]の救援に参戦したが、城は降伏して落城した{{sfn|谷口|1995|p=120}}{{sfn|岡田|1999|p=115}}。
 
[[天正]](元亀)元年([[1573年]])4月2日、信長は不和になっていた義昭の籠もる[[二条御所]]を包囲して、上京を焼き払った。義昭は和議に応じぜざるえなくなったので、3日、折衝のために信長の名代として信広が交渉に臨み、和議を締結させた{{sfn|太田|中川|2013|p=111}}{{sfn|谷口|1995|p=120}}{{sfn|西ヶ谷|2000|p=228}}。この頃、[[吉田兼見]]と親しく交わり、何度か邸宅を行き来している{{sfn|谷口|1995|p=120}}。{{see also|二条御所の戦い}}
 
[[天正]]2年([[1574年]])7月、伊勢長島攻めに従軍{{sfn|谷口|1995|p=120}}。信広は諸将([[豊臣秀長|羽柴秀長]]・[[浅井政澄]]・[[丹羽長秀]]・[[氏家直昌|氏家直通]]・[[安藤守就]]・[[飯沼長継]]など多数)と共に中央の陣に加わった{{sfn|太田|中川|2013|p=129}}。7月15日、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島([[願証寺|長島願証寺]])の5つの攻撃目標のうち、篠橋の砦を、信広・[[織田信成 (戦国武将)|織田信成]]・[[織田信次]]・直通・守就・長継・政澄・[[水野信元]]・[[横井時延|横井雅楽助]]で、攻撃した。篠橋・大鳥居の一揆勢は弱り果てて赦免を求めたが、信長は「悪人どもを懲らしめるために兵糧攻めにして、年来の罪過・悪行に対する鬱憤を晴らす」といって拒否した。長島の一揆勢は長期戦の備えもなく3ヶ月も籠城して半数が餓死した{{sfn|太田|中川|2013|pp=129-132}}。
 
9月29日、海と陸からの兵糧攻めに堪え兼ね、一揆の指揮をとっていた[[下間頼旦]]は開城を願い出て、信長は今度はこれを許すが、偽計であった。降参した一揆勢が多数の船に分乗して長島から退去しようとしているところを、織田勢は鉄砲で撃ちかけて狙撃し、襲い掛かって、際限もなく川に切り捨てた。騙されたと知った一揆勢のうち気骨のある7、8百人が裸になって川に飛び込み、抜刀ひとつで反撃して、警備の手薄なところを突破して、散り散りに逃走した{{sfn|太田|中川|2013|p=132}}。この一揆勢の思わぬ反撃にあって、織田家の親族衆が多く討死したが、信広もこのときに戦死した{{sfn|谷口|1995|p=120}}。この頃、42歳か43歳ぐらいという{{sfn|西ヶ谷|2000|p=228}}。{{see also|[[長島一向一揆#第三次長島侵攻|伊勢長島一向一揆]]}}
 
== 子孫 ==
『織田系図』には信広の子は書かれていないが<ref>{{Cite web|和書|url=https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/676/0031?m=all&n=20|title=『織田系図』|publisher=東京大学史料編纂所 |accessdate=2016-10-25}}</ref>、『[[寛政重修諸家譜]]』『系図纂要』には信広には女児がおり、娘の深光院([[桂峯院]])は信長の養女として丹羽長秀に嫁いでいる{{sfn|西ヶ谷|2000|p=228}}<ref name="ks"/>{{sfn|堀田|1923|p=555}}。彼女は[[丹羽長重]]、[[稲葉典通]]の正室の生母で<ref>『丹羽歴代年譜』によれば、二人の間の子は長重のみ。</ref>、そうであれば[[仁孝天皇]]の祖先となり、その血筋は現在の[[皇室]]にも繋がっていることとなる<ref>信広-桂峯院-女(典通室)-[[稲葉一通]]-[[稲葉知通]]-[[稲葉恒通]]-女([[勧修寺顕道]]室)-[[勧修寺経逸]]-[[勧修寺婧子]]([[光格天皇]]の[[内侍]])-仁孝天皇。</ref>。
織田家の公的な家譜によれば、信広には男子はなく、娘は一人で信長の養女として[[丹羽長秀]]に嫁いでいる。信憑性は薄いものの、異説によれば、このほか信濃国佐久郡武石に居住した武石五郎信興という男子がおり、娘には[[織田信正]]の[[正室]]・[[恭姫]]、六角氏正統の[[六角義郷]]、[[八幡山秀綱]]の母・千代君(『[[招提寺内興起後聞併年寄分由緒実録]]』)があるという。千代君の子である秀綱は織田家正統の後継者となった[[織田秀信]]の養子となったとされる。この場合、秀綱が織田家を継承したとすると、女系ではあるが信広の血統に織田家の正統が移り、祖父・父の兄弟順で兄系が弾正忠家の嫡流を継ぎ、相応に正当性のある措置となることから、義郷、秀綱兄弟が実在したとすると、この養子縁組も行われていた可能性が高い(ただし、一般に信正は織田家の婿養子であるため、信長庶子と言うのは飛躍した想像による可能性も高い)。
 
この他、『系図纂要』は、信広の項目とは別に、信長の庶長子の[[織田信正]]について、その正室を「大隅守信広女」として前述の娘とは別の恭姫を書いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/1200/48/0280?m=all&n=20|title=『系図纂要』|publisher=東京大学史料編纂所 |accessdate=2016-06-09}}</ref>。
 
== 登場する関連作品 ==
; 伝記・小説
:*いせひこ、大沼田伊勢彦『織田家の長男に生まれました』
 
; 漫画
:*大沼田伊勢彦、逸見兎歌、[[平沢下戸]]『織田家の長男に生まれました: 戦国時代に転生したけど、死にたくないので改革を起こします』(『[[チャンピオンクロス]]』連載、[[秋田書店]]、2022年10月6日 - 連載中、全7巻、上記同名小説作品のコミカライズ)
 
== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{CiteCitation book|和書|authorlast=西ヶ谷|first=恭弘|authorlinkauthor-link=西ヶ谷恭弘|year=2000|title=考証 織田信長事典|publisher=[[東京堂出版]] |yearisbn=20009784490105506|pages=227-228}}
* {{Citation |和書|last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修)|author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref={{sfnref|谷口|1995}}|pages=120}}
 
* {{Citation|和書|last= |first= |author-link= |editor=国民文庫刊行会|title=雑史集|year=1912|chapter=三河物語・第一上|publisher=国民文庫刊行会|pages=|url={{NDLDC|1906666/92}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref={{sfnref|三河物語|1912}}|}}
* {{Citation|和書|editor=[[成島司直]]|title=改正三河後風土記. 上|year=1886|chapter= |publisher=金松堂|pages= |url={{NDLDC|993836/144}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}
* {{Citation |和書|last=岡田|first=正人|author-link=岡田正人|year=1999|title=織田信長総合事典|publisher=雄山閣出版|isbn=4639016328|pages=115|chapter=}}
{{デフォルトソート:おた のふひろ}}
[[Category:勝幡織田氏|のふひろ]]
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[[Category:尾張国の人物]]
[[Category:安土桃山時代に戦死した人物]]
[[Category:16世紀1530年代生]]
[[Category:1574年没]]