削除された内容 追加された内容
Kore12san (会話 | 投稿記録)
m 朝鮮半島の旧石器時代で最も古い遺跡の1つは、
誤脱部分の修正
 
(15人の利用者による、間の26版が非表示)
5行目:
 
== 概説 ==
[[朝鮮半島]]における最初の[[人類]]の痕跡は[[平壌直轄市]][[力浦区域]]の洞窟で発見された「[[力浦人]]」を始め、朝鮮半島北部・中部に多数存在する[[石灰岩]]の洞窟で発見されている<ref name="早乙女2000pp3_4">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], pp. 3-4</ref>。「力浦人」は[[原人]]に近い特徴を持つ[[旧人]]とされており、同じく平壌市周辺の洞窟から動物の化石と共に[[ホモ・サピエンス|新人]]の化石が発見されている<ref name="早乙女2000pp3_4"/>。
 
朝鮮半島の[[旧石器時代]]で最も古い遺跡の1つは、[[京畿道]][[漣川郡]]の[[全谷里遺跡]]である<ref name="早乙女2000p7">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 7</ref>。この遺跡から発見された石器が、典型的な[[アシュール文化]]のハンドアックス(手斧)の特徴を持っていることが世界的に注目を集め、その年代は12万5千年前-3万5000年前まで幅広い仮説が提出されている<ref name="早乙女2000p7">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 7</ref><ref name="朝鮮史研究入門p14">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 14</ref>。
13行目:
この頃に朝鮮半島で初めて[[土器]]が登場する<ref name="早乙女2000p17"/>。最古の土器の1つは[[済州島]]の[[高山里遺跡]]で発見された平底鉢と土器片であり、出土層の上層から[[鬼界カルデラ|鬼界アカホヤ火山灰]](6300年前の鬼界カルデラの噴火火山灰)が発見されていることから、その年代はおおよそ6300年前以前と見られる<ref name="早乙女2000p18">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 18</ref>。朝鮮半島における[[新石器時代]]は未だ明確な姿が描かれておらず、旧石器時代から新石器時代への移行について詳細な説明は与えられていない<ref name="朝鮮史研究入門p19">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 19</ref>。『朝鮮史研究入門』においては土器および打製[[石鏃]]の出現をもって画期とし、[[青銅器時代]]の土器である[[無文土器]]の出現までの時間的範囲を便宜上新石器時代として設定している<ref name="朝鮮史研究入門p19"/>。新石器時代の土器は幾何学模様が線で描かれ、北[[ヨーロッパ]]から[[シベリア]]、[[北アメリカ]]にかけて分布する類型の土器と同系統と考えられる。ドイツ語でこの種の土器を「Kamm Keramik」とよばれると呼ぶことから、1930年代にその和訳である「[[櫛目文土器]]」と呼ばれるようになった<ref name="朝鮮史研究入門p19"/><ref name="早乙女2000pp20_21">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], pp. 20-21</ref>。ただし現在でも多様な名称が用いられ、また粘土紐や押印文による装飾が行われたものも存在する<ref name="朝鮮史研究入門p19"/>。
 
紀元前1000年頃から[[無文土器]]が出現し、これによって櫛目文土器時代と区別されている<ref name="早乙女2000p45">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 45</ref>。この時代は同時に[[青銅器]]の使用、[[磨製石器]]の登場、[[稲作]]の開始によって特徴づけられ、無文土器時代と呼ばれている<ref name="早乙女2000p45"/>。無文土器は紀元前300年頃を境にして大きく前期と後期に分けられている。無文土器時代には[[中国東北部]]([[満]])の青銅器文化が朝鮮半島に流入し、大きな文化的痕跡を残した<ref name="早乙女2000p51">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 51</ref>。朝鮮半島の青銅器文化は[[銅剣]]の種類によって時期区分が行われており、その区分と無文土器による前期・後期の区分はほぼ対応する<ref name="早乙女2000p51"/>。前期のものは[[遼寧式銅剣]]と呼ばれ、中国の[[遼寧省]]を中心に分布する「遼寧青銅器文化を代表する遺物である」(早乙女<ref name="早乙女2000p51"/>)。後期のものは「[[韓国式銅剣]]」とも呼ばれ、遼寧式銅剣から派生した。遼寧式銅剣が朝鮮半島に伝わった上限年代は紀元前8世紀頃、下限は紀元前7/6世紀頃であり<ref name="早乙女2000p54">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 54</ref>、一部の刀剣類は[[西周 (王朝)|西周]]時代(紀元前10-9世紀頃)に遡る<ref name="早乙女2000p57">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 57</ref>。無文土器時代前期末頃には朝鮮半島で青銅器の鋳造生産が始まったことが出土した鋳型によってわかっている<ref name="早乙女2000p57"/>。朝鮮半島では既に[[アワ]]や[[ヒエ]]の栽培が陸路で伝わり始まっていたが、[[コメ]]の生産はこの時代に海路で中国から伝わり始まったと見られる<ref name="早乙女2000p64">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 64</ref>。無文土器時代のもう一つの大きな特徴として、[[支石墓]]が多数建造されるようになることがある。これもまた青銅器文化とともに中国東北地方から流入したものであり、朝鮮半島では2000以上の遺跡が見つかっている。[[全羅南道]]が分布の中心であり、全体の約半数が集中している<ref name="早乙女2000p72">[[#早乙女 2000|早乙女 2000]], p. 72</ref>。
 
朝鮮半島南部では日本列島と密接な人的交流があったものと見られ、[[勒島]]から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、[[甕棺]]墓や北部九州の[[弥生土器]]の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している<ref name="ReferenceA">小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 (18), 1-8, 1998</ref>。
19行目:
朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な[[箕子朝鮮]]であり、その後[[衛氏朝鮮]]が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は[[紀元前195年|前195年]]頃に[[燕 (春秋)|燕]]人の[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]の王・[[準王]]を追い出して建国したという<ref>『[[三国志]]』</ref>。衛氏朝鮮は三代[[衛右渠]]の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は[[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]として400年間支配されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った<ref name="朝鮮史研究入門p45">[[#朝鮮史研究入門 2011|朝鮮史研究入門 2011]], p. 45</ref>。
 
[[4世紀]]中頃に、[[満州]]の[[鴨緑江]]付近で興った[[高句麗]]が南下して楽浪郡北部を征服、[[百済]]も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には[[百済]]、南東部には[[新羅]]が割拠した。
 
高句麗は4世紀の[[好太王|広開土王]]の代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある([[高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題]])。
 
百済は漢城(漢山城、現:[[ソウル特別市|ソウル]][[松坡区]])を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、[[熊津]]に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。南端部には諸小国の雑居する[[伽耶]](加羅、[[任那]])があり、その勢力争いには[[倭国]]も影響を及ぼした<ref name=yoshida>{{Cite book|和書|author=吉田孝|authorlink=吉田孝|year=1997|month=6|title=日本の誕生|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430510-1}} pp.74-78.</ref>(旧説では「支配下」にあったとする<ref>『任那興亡史』31P-200P</ref>)。[[釜山市]]近郊の[[金海礼安里古墳]]群は[[4世紀]]から[[7世紀]]に築かれた[[伽耶人]]の庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方の[[弥生人]]や[[古墳人]]に近いという結果が得られた<ref name="ReferenceA"/>。
35行目:
10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。
 
高麗は[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、[[14世紀]]に元が北へ逃げると親[[明]]を掲げる[[女真族]]ともいわれる<ref name=Jurchen/>[[李成桂]]が建国した[[李氏朝鮮]](朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、[[女真]]族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた[[建州女真]]の大酋[[李満住]]が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。
 
朝鮮は[[15世紀]]4代国王、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時、黄金期を迎える。世宗は[[訓民正音]]([[ハングル]]:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、[[女真]]との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。[[蔣英実]]などを重用し、天文観測機構の設置や、機器([[渾天儀]]、[[簡儀]])の製作、時間を表す[[仰釜日晷]]、[[自撃漏]]などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。
41行目:
[[16世紀]]に[[豊臣秀吉]]の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と[[李舜臣]]の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。[[17世紀]]には[[女真]]族が建てた[[清]]の侵攻を受け、衆寡敵せず[[大清皇帝功徳碑]]を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。
 
[[1776年]]に22代国王の[[正祖]]が即位する。正祖は即位初期には[[洪国栄]]などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は[[老論]]という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、[[蕩平策]]を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、[[正祖]]の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、[[水原市|水原]][[華城 (世界遺産)|華城]](世界遺産)の設計や建築に関わった[[丁若鏞]]や[[朴斉家]]、[[洪大容]]、[[柳得恭]]などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、[[北学派]]や[[実学派]]を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、[[1800年]]、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。<ref>『朝鮮史』武田幸男編184頁</ref>
[[1776年]]に22代国王の[[正祖]]が即位する。正祖は即位初期には
 
重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は[[老論]]という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、[[蕩平策]]を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、[[正祖]]の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、[[水原市|水原]][[華城 (世界遺産)|華城]](世界遺産)の設計や建築に関わった[[丁若鏞]]や[[朴斉家]]、[[洪大容]]、[[柳得恭]]などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、[[北学派]]や[[実学派]]を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、[[1800年]]、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。<ref>『朝鮮史』武田幸男編184頁</ref>
 
[[19世紀]]半ばから欧米列強が来訪、[[開国#朝鮮|開国]]を要求、そして[[大日本帝国|日本]]、[[清]]、[[ロシア帝国|ロシア]]が朝鮮半島の権益をめぐって対立、[[日清戦争]]後に結ばれた[[下関条約]]締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、[[1897年]]に[[大韓帝国]](朝鮮から国号を変更)として独立するも、[[伊藤博文]]を[[安重根]]が暗殺し、[[1910年]]に全土が[[大日本帝国|日本]]に[[韓国併合|併合]]された。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦に伴い、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]によって朝鮮半島のほぼ中央を走る[[緯度|北緯]][[38度線]]を境に南北に[[分割統治]]され、その後に各々独立、南に[[大韓民国|韓国]]、これに反抗する済州島は[[済州島四・三事件]]で鎮圧がなされ、北には[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が建国された。[[1950年]]に北側から[[赤化統一]]を目指して[[朝鮮戦争]]が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、[[朝鮮統一問題|南北統一]]を如何に果たすかが両国間の課題となっている。
50 ⟶ 48行目:
 
== 先史時代・古朝鮮時代 ==
[[Fileファイル:Korea-Ganghwado-Dolmen-02.jpg|250px|thumb|[[高敞、和順、江華の支石墓群]]]]
=== 先史時代 ===
[[考古学]]的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。
70 ⟶ 68行目:
 
=== 古朝鮮時代 ===
[[Fileファイル:Ping Sien Si - 072 Ji Zi (16137921534).jpg|220px|thumbnailthumb|left|箕子]]
[[Fileファイル:Han Dynasty.jpg|thumb|220px|紀元前数世紀ころの朝鮮半島]]
考古学的考証のない事項はここに記す。
 
77 ⟶ 75行目:
 
;[[檀君朝鮮]]([[檀君]]神話)
:[[檀君]]は[[神話]]上の人物。『[[三国遺事]]』に、『[[魏書]]』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、[[中国]]の[[堯]]帝時代に[[白頭山]]に降臨した天神の子・桓雄と[[クマ|熊]]女の間に生まれた檀君が[[平壌直轄市|平壌城]]で建国したと記されている。[[大韓民国]](韓国)では<!--『[[桓檀古記]]』([[偽書]]とされる)に含まれる「檀君世紀」により--><!--檀君紀元の記事参照-->檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「[[檀君紀元]]」(檀紀)という[[紀元]]も存在する。近年[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)では、[[コンクリート]]製の[[檀君陵]]を復元しているが、その[[考古学]]的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。しかしながら、そもそも神という概念すら無かった事を鑑みれば、『魏書』に記述が存在していない事も頷ける。長い歴史があったかのように近代になって創作したものと思われる
;[[箕子朝鮮]](きしちょうせん、? - [[紀元前194年]]):[[中国]]の[[殷]]を出自<ref group="注釈">箕子朝鮮の建国者である箕子については、『[[史記]]』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。</ref> とする[[中国人]]の[[箕子]]が建国したとされる[[朝鮮]]の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の[[平壌直轄市|平壌]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志書、『[[魏略]]』[[逸文]]などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『[[魏略]]』および『[[後漢書]]<ref group="注釈">『[[後漢書]]』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]を滅ぼした際に[[箕子朝鮮]]の最後の王、[[準王]]は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。</ref>』には、[[前漢]]建国当時の朝鮮は[[箕子]]の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、[[箕準]]の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の[[馬韓]]の地を攻略し、そこで韓王となったという。
;[[辰国]]
:{{節スタブ}}
84 ⟶ 82行目:
== 古代の朝鮮半島 ==
=== 衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代 ===
[[Fileファイル:Map of The east barbarian 0.png|thumb|300px|[[紀元前1世紀]]頃の東正アジア諸国と[[漢四郡]]]]
[[朝鮮半島]]では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42</ref>。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、[[燕 (戦国)|燕]]は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて[[官吏]]を駐在させ、中国商人の権益を保護していた<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22</ref>。[[秦]]代は[[遼東郡]]の保護下にあった<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23</ref>。秦末[[漢]]初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部([[清川江]]以南)から撤退させた。紀元前197年、[[漢朝]]は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の[[衛満]]が[[清川江]]を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、[[衛氏朝鮮]]が成立した<ref>岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27</ref>。
 
90 ⟶ 88行目:
: [[考古学]]的に証明できる[[朝鮮]]の最初の[[国家]]。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。[[中国]]の[[燕 (春秋)|燕]]を出自<ref group="注釈">衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『[[史記]]』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。</ref> とする[[中国人]]亡命者である[[衛満]]が[[朝鮮半島]]北部に建国した。[[衛氏朝鮮]]は三代[[衛右渠]]の時の[[紀元前108年]]に[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]に滅ぼされた。その故地には[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。
* [[原三国時代]](BC108 - 2世紀中葉)
* [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]])
* [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]])[[ツングース民族]]による国家<ref>* {{仮リンク|セルゲイ・シロコゴロフ|ru|Широкогоров, Сергей Михайлович}}、[[川久保悌郎]]・[[田中克巳]]訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
* [[白鳥庫吉]]『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
* [[井上秀雄]]、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
* [[加藤九祚]]『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
* [[三上次男]]・[[神田信夫]]編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
* [[鳥越憲三郎]]『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
* [[浜田耕策]]『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
* [[村山正雄]]『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
* [[佐々木史郎]]『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
* [[護雅夫]]『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
* [[諏訪春雄]]「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族([https://megalodon.jp/2008-1107-1735-41/www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa50.htm 学習院大学教授 諏訪春雄通信])」
* [[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
* [[広辞苑]]「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
* [[大辞泉]]「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
* [[長野正孝]]『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
* [[宮家邦彦]]『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
* [[薗田香融]]『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
* [[埴原和郎]]『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
* [[酒井忠夫]]『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
* [[渡部昇一]]『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
* [[三上次男]]『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
* [[青木慶一]]『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
* [[成瀬治]]『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
* [[沖浦和光]]『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
* [[白崎昭一郎]]『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
* [[水野祐 (歴史学者)|水野祐]]『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
* [[小島直記]]『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
* [[佐々木高明]]『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
</ref>。
*[[遼東郡]]東部都尉([[平安北道]])
*[[楽浪郡]]([[平安南道]]・[[黄海北道]])
124 ⟶ 94行目:
*[[東沃沮|北沃沮]]([[咸鏡北道]])
*[[東沃沮]]([[咸鏡南道]])
*[[濊]](ワイ)([[江原道 (南)|江原特別自治道]])
*[[馬韓]](京畿道・[[忠清北道]]・[[忠清南道]]・[[全羅北道]]・[[全羅南道]]。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
*[[辰韓]]([[慶尚北道]]・[[慶尚南道]])
** [[秦]]からの[[移民]]とする説もある。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[始皇帝|秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という{{refnest|group="注釈"|name="Qin"|『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、[[始皇帝|秦の始皇帝]]の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『[[北史]]』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある<ref>[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8C%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7094&variant=zh-cn#.E6.96.B0.E7.BE.85 『北史』新羅伝]</ref>。[[水谷千秋]]は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に[[中国]]からの[[移民]]と考えて間違いない、と述べている<ref>『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁</ref>。中国政府の[[シンクタンク]]である[[中国社会科学院]]は、公式研究書で新羅に対して、「中国の[[秦]]の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している<ref>[https://megalodon.jp/2008-1114-1116-55/www.chosunonline.com/article/20070604000018 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院 『朝鮮日報』2007年6月4日]</ref>。}}。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。
 
* [[弁韓]](全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。)
133 ⟶ 103行目:
 
=== 三国時代 ===
[[Fileファイル:Three Kingdoms of Korea Map ja.png|250px|thumb|三国時代の朝鮮半島]]
[[Fileファイル:King and Queen.jpg|thumb|250px|新羅の冠]]
[[Fileファイル:Goguryeo-Relations.jpg|thumb|320px|高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の[[満洲民族]]の母体)に分割されている。]]
{{main|三国時代 (朝鮮半島)}}
*433年 [[羅済同盟]]
144 ⟶ 114行目:
*668年 唐が高句麗を滅ぼす
*670年 [[唐・新羅戦争]]
[[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の三国が並立。[[唐]]は[[660年]]に百済を滅ぼし、[[668年]]には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に[[安東都護府]]を設置、百済の故地に[[熊津都督府]]を設置する。さらに、新羅を[[鶏林州都督府]]として半島全域を藩属国から[[羈縻州]]としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から[[冊封]]を許された。
 
* [[伽耶|伽耶諸国]]( - [[562年]])
166 ⟶ 136行目:
 
* [[新羅]] ([[676年]]-[[935年]])
* [[渤海 (国)|渤海]]([[698年]]-[[926年]])
* [[渤海 (国)|渤海]]([[698年]]-[[926年]]、[[ツングース]]民族<ref>* [[森安孝夫]]『日本大百科全書』「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家」
* [[和田萃]]『日本史事典』(1990年、東京創元社)「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」
* [[藤本和貴夫]]『日本大百科全書』「【シベリア】7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた」
* [[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
* [[佐々木史郎]]『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
* 『世界史用語集』(2014年、山川出版社)「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」
* [[菊池俊彦]]『日本大百科全書』「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派」
* [[広辞苑]]「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
* [[大辞泉]]「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
* [[大辞泉]]「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」
* [[大辞林]]「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」
* [[安藤達朗]]『いっきに学び直す日本史』(2016年、東洋経済新報社)「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた。」
* [[田村実造]]『中國征服王朝の研究』第1巻(1964年、東洋史硏究會)「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである。」
* [[渡部昇一]]『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
* [[埴原和郎]]『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
* [[鈴木俊 (東洋史学者)|鈴木俊]]『東洋史要説』(1960年、吉川弘文館)p176「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ」
* [[中国研究所]]『中国年鑑』(2002年、大修館書店)p393「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある。靺鞨族により創建された渤海国」
* [[今西正雄]]『民族文化史概説』(1943年、全國書房)「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族」
* [[佐々木高明]]『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」</ref>)
 
=== 後三国時代 ===
194 ⟶ 146行目:
 
== 中世の朝鮮半島 ==
[[画像ファイル:Korea - Seoul - National Museum - Incense Burner 0252-06a.jpg|thumb|210px|高麗青磁(香炉)]]
[[Fileファイル:Goryeo Pagoda.jpg|thumb|200px|敬天寺十層石塔]]
 
=== 高麗 ===
217 ⟶ 169行目:
** [[1274年]]・[[1281年]] [[忠烈王]]の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻([[元寇]][[文永の役]]、[[弘安の役]])への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける<ref name="kourai">『高麗史』一百四 列伝 巻十七 [[金方慶]]伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」</ref><ref name="gen">『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 [[至元 (元世祖)|至元]]十九年七月壬戌([[1282年]]8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」</ref>。
** [[1289年]] 元の[[征東行省]]が常設され、元朝の領土化。
** [[1294年]] 元の直轄領となっていた[[済州島]]が返還される。
** [[1350年]] この頃より[[倭寇]]に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。
** [[1351年]] [[恭愍王]]即位(〜1374年)。
223 ⟶ 176行目:
** [[1365年]] [[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]による改革政治(〜71)。
** [[1374年]] 恭愍王が暗殺される。[[禑王|{{lang|ko|禑王}}]]が即位(〜88)。
** [[1388年]] 親明派の武将[[李成桂]]がクーデターを起こし実権者になる([[女真族威化島回軍]]ともいわれる<ref name="Jurchen">)。
*[[池内宏]]『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版
*[[山内弘一]]「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 [[武田幸男]]編集『朝鮮史』山川出版社
*[[室谷克実]]『日韓がタブーにする半島の歴史』[[新潮新書]]
*[[宮家邦彦]]『哀しき半島国家韓国の結末』、[[PHP研究所]]、160頁「李氏朝鮮は[[1392年]]、元が衰退したのちに親『[[明]]』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、[[1402年]]に明に[[朝貢]]・[[冊封]]した。」
*[[岸本美緒]]/[[宮嶋博史]]「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』、[[中央公論社]]、17頁「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」
*[[岡田英弘]][[宮脇淳子]]研究室『[http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である]』</ref>)がクーデターを起こし実権者になる([[威化島回軍]])。
** [[1391年]] [[科田法]]の制定。
** [[1392年]] [[鄭夢周]]が暗殺される。
240 ⟶ 187行目:
 
== 近世の朝鮮半島 ==
[[ファイル:Seoul Gyeongbokgung Throne.jpg|thumb|250px|景福宮の玉座と[[日月五峰図]]]]
[[Fileファイル:Sejong tomb 1.jpg|thumb|right|250px|[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[朝鮮王陵|王陵]]]]
[[ファイル:Yeongeunmun Gate.JPG|thumb|right|250px|[[大清帝国]]の使者を迎えるための[[迎恩門]]]]
[[ファイル:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|right|250px|[[アメリカ軍]]による朝鮮征伐[[辛未洋擾]]により破壊された朝鮮の要塞]]
[[ファイル:Imo Incident Flight of Japanese Legation from Korea by Utagawa Kunimatsu 1882.png|thumb|right|250px|[[壬午事変]]における[[軍事]][[クーデター]]により王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)]]
 
=== 李氏朝鮮 ===
{{main|李氏朝鮮}}
 
**[[1392年]] [[李成桂]]([[女真族]]ともいわれる<ref name="Jurchen" />)が高麗の[[恭譲王]]から王位を[[簒奪]]し、高麗王に即位。[[明]]より[[権知高麗国事]]として認められる。
** [[1393年]] 李成桂が[[権知朝鮮国事]]に冊され、国号が朝鮮となる。明の皇帝から、新たな国号を「[[朝鮮]]」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。
** [[1398年]] [[第一次王子の乱]]
323 ⟶ 270行目:
** [[1876年]] 明治新政府と[[日朝修好条規]]を結ぶ。
** [[1882年]] [[米朝修好通商条約]]。大院君扇動による壬午軍乱([[壬午事変]])が失敗し、清政府と[[中朝商民水陸貿易章程]]を締結。
** [[1883年]]゜米朝の友好関係構築のためアメリカへ初の朝鮮政府訪問団を送り、朝鮮には初のアメリカ公使[[ルーシャス・ハーウッド・フット|初のアメリカ公使フット]]が駐在する。
** [[1884年]] [[甲申政変]](甲申事変)、[[開化派]]のクーデターは失敗に終わり、[[事大派]]の勝利となる。
** [[1885年]] [[巨文島|巨文島事件]]。[[露朝密約事件]](第一次)。
333 ⟶ 280行目:
 
== 近代 ==
[[ファイル:Yi Un & Yi Bangja 1923.jpg|thumb|250px|[[李王家]]に嫁いだ[[梨本宮]][[李方子|方子女王]]]]
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|250px|[[中国軍]]の支援を受けた[[抗日パルチザン]]と[[赤軍]]の攻撃により焼け落ちた[[ニコラエフスク]][[在外公館|日本領事館]]([[尼港事件]]。1920年)]]
[[ファイル:Sohn Kee-chung 1936b.jpg|thumb|250px|[[1936年ベルリンオリンピック|1936年ベルリン五輪]]に日本代表として出場した[[孫基禎]]]]
[[ファイル:COMFORT Ad.gif|thumb|250px|[[慰安婦]]募集の新聞広告。]]
=== 大韓帝国 ===
{{main|大韓帝国}}
345 ⟶ 292行目:
** [[1906年]] [[韓国統監府]]設置。
** [[1907年]] [[国債報償運動]]。[[ハーグ密使事件]]。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が退位し[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が即位。[[第三次日韓協約]]。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。
** [[1909年]] 韓国統監府初代統監[[伊藤博文]]が[[ハルビン]]駅にて[[安重根]]により[[伊藤博文暗殺事件|暗殺]]される。朝鮮と清の国境が定まる([[間島#間島協約|間島協約]])。
 
=== 日本統治時代 ===
355 ⟶ 302行目:
** 1920年 [[シベリア]]東部の[[ニコラエフスク]]で[[共産革命]]が激化し、[[赤軍パルチザン]]が日露住民を虐殺する[[尼港事件]]に[[抗日パルチザン|朝鮮パルチザン]]が協力する。
** 1920年 [[梨本宮]][[李方子|方子女王]]が[[李王家]]に嫁ぐ。
** 1920年 [[州]]東部の[[間島]]に朝鮮人亡命者が集まり、中国人の馬賊と結んで[[間島事件]]、[[青山里戦闘]]が起こすが、翌年[[自由市惨変]]で壊滅。
** 1929年 [[光州学生事件]]。[[朝鮮博覧会]]。
** 1931年 [[万宝山事件]]で朝鮮人の[[反中感情]]が高まり、朝鮮華僑の虐殺事件([[朝鮮排華事件]])が勃発する。
377 ⟶ 324行目:
{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 200220
|image1 = Syngman Rhee.jpg
|caption1 = [[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]将軍と[[李承晩]]
391 ⟶ 338行目:
|caption6 = [[李承晩ライン]]に進入した日本人の抑留
|image7 = Registration of comfort women.jpg
|caption7 = [[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]に提供される[[慰安婦]]の登録実施(1961年)
|image8 = 080606 ROK Protest Against US Beef Agreement 04.jpg
|caption8 = [[アメリカ合衆国]]との韓米貿易協定に抗議する数十万人の市民([[2008年韓国蝋燭デモ]])
418 ⟶ 365行目:
* [[朝鮮戦争]](韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる。)
** [[1950年]][[6月25日]] 北朝鮮の[[朝鮮人民軍]]が[[北緯38度線]]を南侵することで勃発。
** [[1950年]]6月〜 [[保導連盟事件]]。米軍を中心に結成された[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]が参戦。
** [[1950年]]7月 [[老斤里事件]]。
** 1950年9月15日 [[仁川上陸作戦]]
493 ⟶ 440行目:
*** [[2013年]] [[MIKTA]]加盟。
*** [[2016年]][[12月9日]] 国会で[[朴槿恵韓国大統領弾劾訴追|朴槿恵大統領に対する弾劾訴追議案]]が可決、[[黄教安]]が大統領職務を代行。
** [[文在寅]]政権…第十九代大統領(2017年 - 現在[[2022年]]
*** [[2018年]]2月 [[2018年平昌オリンピック|平昌五輪]]開催。
*** 2018年[[4月27日]] 北朝鮮の[[金正恩]][[朝鮮民主主義人民共和国国務委員会#国務委員会委員長|国務委員会委員長]]と[[2018年南北首脳会談|第三次南北首脳会談]]を実施<ref>{{Cite web |和書|date= 2018-04-19|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W01TRL4VUHBI04B.html|title= 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>。
** [[尹錫悦]]政権…第二十代大統領(2022年 - 現在)
*** [[2023年]][[8月19日]] 日米韓首脳会談を実施。<ref>{{Cite web|和書|title=日米韓首脳会談 日本時間の19日未明から【各国のねらい解説】 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230818/k10014165971000.html |website=NHKニュース |date=2023-08-18 |access-date=2023-09-08 |last=日本放送協会}}</ref>
 
=== 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) ===
{{Main|朝鮮民主主義人民共和国の歴史}}
[[ファイル:Abductee families of North Korean abductions.jpg|thumb|[[瀋陽総領事館事件|日本総領事館脱北者駆け込み事件]]で日本総領事館に駆け込んだ少女と[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]で拉致された[[横田めぐみ]]さんの家族と会見する当時の[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領]](2006年4月28日、[[ホワイトハウス]])]]
[[ファイル:Mansudae Grand Monument 08.JPG|thumb|[[平壌直轄市|平壌]]で[[万寿台創作社]]が制作した[[金日成]]と[[金正日]]の父子の立像]]
[[ファイル:2018 inter-Korean summit 01 (cropped).jpg|thumb|[[2018年南北首脳会談|第3回南北首脳会談]]に臨む韓国の[[文在寅]]大統領と北朝鮮の[[金正恩]]朝鮮労働党委員長(2018年4月27日)]]
* [[金日成]]体制([[1945年]] - [[1994年]])
526 ⟶ 475行目:
** [[1994年]][[7月8日]] {{仮リンク|金日成の死|en|Death and state funeral of Kim Il-sung|label=金日成死去}}、実子・長男の[[金正日]]への世襲による権力継承。
* [[金正日]]体制([[1994年]] - [[2011年]])
** [[2000年]] 韓国の[[金大中]]大統領との初めての[[南北首脳会談]]を実施。「[[6.15南北共同宣言]]」を発表。
** [[2002年]] [[日朝首脳会談]]、[[日朝平壌宣言]]
** [[2004年]][[12月9日]] 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。
** [[2005年]][[2月11日]] [[核兵器]]製造・保有を公式に認める。
** [[2006年]][[7月15日]] [[国際連合安全保障理事会]]が決議第1695号を採択。
537 ⟶ 486行目:
* [[金正恩]]体制([[2011年]] - 現在)
** [[2016年]]5月 祖父で初代最高指導者[[金日成]]体制下の[[1980年]]以来、36年ぶりの[[朝鮮労働党第7次大会|朝鮮労働党大会]](第7回)を開催。
** [[2018年]][[4月27日]] 金正恩が北朝鮮の最高指導者として史上初めて[[板門店]]の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]を超えて[[大韓民国|韓国]]を訪問し<ref>{{Cite web |和書|date= 2018-04-27|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W01TRL4VUHBI04B.html|title= 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>、[[文在寅]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]と[[2018年南北首脳会談|第三次南北首脳会談]]を実施し、「[[板門店宣言]]」を発表<ref>{{Cite web |和書|date= 2018-04-27|url=
https://www.asahi.com/articles/ASL4W5VB7L4WUHBI05L.html|title= 「完全非核化」目標、年内に終戦 南北首脳が板門店宣言 |publisher= [[朝日新聞]]|accessdate=2018-05-01}}</ref><ref>[httphttps://www.afpbb.com/articles/-/3172871 「朝鮮半島の非核化に尽力」、南北首脳が共同声明] AFP BB NEWS Japan 2018年4月27日</ref><ref>{{Cite news |date=2018-04-27 |url= https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/27entry/panmunjeonm-koreasummit_a_23421824/koreasummit_jp_5c5b7bdbe4b0faa1cb67fee4 |title=「板門店宣言」の全文を、取り急ぎ日本語に訳してみました|publisher= [[ハフポスト]]|accessdate=2018-04-28}}</ref>。
** [[2018年]][[6月12日]] 金正恩が[[ドナルド・トランプ]]アメリカ合衆国大統領と、[[シンガポール]]にて[[2018年米朝首脳会談|米朝首脳会談]]を実施し、共同声明を発表する。アメリカの現職大統領と北朝鮮の最高指導者が直接対面し会談を行うのは史上初。
** [[2023年]]9月 [[ロシア]]との[[首脳会談]]を実施<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアと北朝鮮 2回目の首脳会談へ “ロシア極東開催で調整” {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230907/k10014186161000.html |website=NHKニュース |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-08 |last=日本放送協会}}</ref>
 
== 脚注 ==