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{{Otheruses|アイルランドの小説家・詩人|アメリカの野球審判員|ジム・ジョイス}}
{{出典の明記|date=2018年12月}}
{{Expand English|James Joyce|fa=yes|date=2020年12月}}
{{Infobox 作家
| name = ジェイムズ・ジョイス<br />James
| image = Revolutionary Joyce Better Contrast.jpg
| caption = チューリッヒでのジョイス(1918年頃)
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| birth_name = ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1882|2|2|1941|1|13}}
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| movement = [[モダニズム]]
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== 生涯 ==
=== ダブリン時代(1882年 - 1904年) ===
ジェイムズ・ジョイスは[[1882年]]にダブリンの南のラスガーという富裕な地域で没落してゆく中流の[[カトリック教会|カトリック]]家庭に、10人兄弟の長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが[[腸チフス]]で亡くなっている)。母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー
[[ファイル:James Joyce age six, 1888.jpg|upright|thumb|left|6歳(1888年)]]
[[1891年]]、アイルランドの政治指導者で父ジョンも熱烈に支持していた「王冠なき国王」[[チャールズ・スチュワート・パーネル|C・S・パーネル]]の死に際して、当時9歳のジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」(''"Et Tu, Healy?"'')と題した詩を書いた([[:en:Timothy Michael Healy|ティモシー・ヒーリー]]はパーネルを裏切り政治生命を絶った人物)。ジョンはこれを印刷し、[[バチカン図書館]]にコピーを送りさえした。同年11月、ジョンは破産宣告を受けて休職、[[1893年]]には年金給付の上で解雇された。この一件からジョンは酒浸りになり、経済感覚の摩耗もあいまって一家は貧困への道をたどりはじめることとなる。
ジョイスは[[1888年]]から[[キルデア
[[1898年]]、ジョイスは設立されてまもない[[ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン]]に入学し、現代語、特に[[英語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]を学び、有能さを発揮した。また、ダブリンの演劇や文学のサークルにも活発に参加し、『[[隔週評論]]』誌に[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]の戯曲『わたしたち死んだものが目覚めたら』(''"Når vi døde vågner"'' 、[[1899年]])の書評「イプセンの新しい演劇」(''"Ibsen's New Drama"'')を発表したりなどした。この書評はジョイスの最初に活字となった作品であり、[[ノルウェー]]でこれを読んだイプセン本人から感謝の手紙が届けられている。この時期のジョイスは他にもいくつかの記事と少なくとも2本の戯曲を書いているが、戯曲は現存していない。また、こうした文学サークルでの活動をきっかけとして[[1902年]]にはアイルランド人作家[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]との交友が生れている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人たちの多くはのちのジョイスの作品中に登場している。
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[[1903年]]、学士の学位を得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業したのち、ジョイスは[[パリ]]へ留学する。医学の勉強が表向きの理由であったが、貧しい家族がジョイスの浪費癖に手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元で祈りを捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなく、ジョイス自身が不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイスは酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評を書いたり教師や歌手などをして糊口をしのいだ。
[[1904年]][[1月7日]]、ジョイスは[[美学]]をテーマとしたエッセイ風の物語『芸術家の肖像』(''"A Portrait of the Artist"'')を発表しようと考え、[[自由主義]]的な雑誌『Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年の誕生日、ジョイスはこの物語に修正を加えて『スティーブン・ヒーロー』(''"Stephen Hero"'')という題の小説に改作しようと決意した。このころ、彼は[[ゴールウェイ
ジョイスはその後もしばらくダブリンにとどまり、ひたすら飲み続けた。こうした放蕩生活をしていたある日、ジョイスは[[フェニックス・パーク]]で一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョンの知人アルフレッド・H・ハンターなる人物が身元引き受け人となってジョイスを連れ出し、怪我の面倒をみるため自分の家へ招いた。ハンターはユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデルの一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなる[[オリバー・セント=ジョン=ゴガティ]](のちに本業の医者としてだけでなく[[ウィリアム・バトラー・イェーツ|W・B・イェイツ]]から称賛されるほどの文筆家としても知られるようになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外の[[サンディコーヴ]]に所有していた[[マーテロー・タワー]]に6日間滞在している。その後二人は口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイスは夜中に逃げ出し、親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った。翌日、置き忘れてきたトランクは友人に取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ』劈頭の舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。
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=== トリエステ時代(1904年 - 1915年) ===
ジョイスはノラと自発的亡命に入り、まず[[チューリッヒ]]へ移住してイギリスのエージェントを通して[[ベルリッツ コーポレーション|ベルリッツ語学学校]]で英語教師の職を得た。このエージェントは詐欺に遭っていたことが判明したが、校長はジョイスを[[トリエステ]]([[第一次世界大戦]]後に[[イタリア]]領となるが、当時は[[オーストリア・ハンガリー帝国]]領
[[1905年]]3月、オーストリアでスパイ組織が摘発されてすべての外国人が追放されることになったためプーラを離れざるをえず、再び校長の助けによりトリエステへ戻って英語教師の仕事を始め、その後の10年の大半を同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラが最初の子供ジョルジオ(1905〜76)を産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロース(1884〜1955)を呼び寄せ、同じくトリエステ校の教師としての地位を確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向きの理由であったが、家計を支えるためにはもう一人稼ぎ手が欲しいからというのが本音であった。兄弟の間では主にジョイスの浪費癖と飲酒癖をめぐって衝突が絶えなかった。この年の12月、ロンドンの出版社に『[[ダブリン市民]]』の中の12編を送っているが出版は拒否された。
やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、[[1906年]]7月に[[ローマ]]へ移住して銀行の通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」の執筆を開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに[[1907年]]3月にはトリエステへ帰ることとなった。この年の7月には娘ルチア(1907〜82)が誕生している。執筆に関しては、同年5月に詩集『室内楽』(''"Chamber Music"'')を出版したほか、「死者たち」(''"The Dead"'')を脱稿し、『芸術家の肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を、『[[若き芸術家の肖像]]』(''"A Portrait of the Artist as a Young Man"'')として再度改稿へ着手している。
[[1909年]]の7月にジョイスは息子ジョルジオを連れてダブリンへ帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラの家族との初対面も成功裏に済ませることが出来た。トリエステへ帰る準備をしながら、ジョイスはノラの家事の手伝いとして自分の妹エヴァを連れて帰ることに決めた。トリエステへ戻って一月後、ダブリンで最初の映画館「ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業が軌道に乗った[[1910年]]1月、もう一人の妹アイリーンを連れてトリエステに戻る(ただし映画館はジョイスの不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァはホームシックにより数年でダブリンへ戻ってしまうが、アイリーンはその後の生涯を大陸で過ごし、チェコの銀行員<!-- Frantisek Schaurek -->と結婚した。
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=== パリ時代(1920年 - 1940年) ===
自身の眼の手術と[[統合失調症]]を患った娘ルチアの治療のためジョイスはたびたびスイスを訪れた。パリ時代には[[T・S・エリオット]]や[[ヴァレリー・ラルボー]]([[:en:Valery Larbaud|Valery Larbaud]])、[[サミュエル・ベケット]]といった文学者との交流が生れた。パリでの長年にわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆中はユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻がジョイスの手助けをした。夫妻の強い支持とハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政支援がなかったならば、ジョイスの著書は
=== ふたたびチューリッヒ時代(1940年 - 1941年) ===
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* [[1904年]] - [[1906年]]『スティーヴン・ヒーロー』(''"Stephen Hero"''、『芸術家の肖像』を改稿した小説、1944年出版)
* [[1907年]]『室内楽』(''"Chamber Music"''、詩集)
* 同年 『死者たち』(''"The Dead"''、短篇集)
* [[1914年]]『[[ダブリン市民]]』(''"Dubliners"''、短篇集)
* [[1916年]]『[[若き芸術家の肖像]]』(''"A Portrait of the Artist as a Young Man"''、長篇小説)
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* [[1927年]]『ポームズ・ペニーチ』(''"Pomes Penyeach"''、詩集)
* [[1939年]]『[[フィネガンズ・ウェイク]]』(''"Finnegans Wake"''、長篇小説)
* [[1965年]]『猫と悪魔』(''"The Cat and the Devil"''、児童書)
*『ジェイムズ・ジョイス全評論』([[吉川信]]訳、[[筑摩書房]]、2012年)
::14歳から55歳までの全61篇([[電子書籍]]化、2016年より)
=== 概観 ===
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: <small>(詳細は別項『[[ユリシーズ]]』を参照)</small>
: [[1906年]]に『ダブリン市民』を完成させたジョイスは、レオポルド・ブルームという名のユダヤ人広告取りを主人公とする「ユリシーズ」というタイトルの短篇をそれに追加することを考えた。この計画は続行されなかったが、[[1914年]]にはタイトルと基本構想を同じくする長編小説に取り組みはじめる。[[1921年]]10月に執筆を終えたのち校正刷りに3ヶ月かけて取り組み、自ら定めた締め切りである40歳の誕生日([[1922年]][[2月2日]])の直前に完成させた。
: エズラ・パウンドの尽力により、[[1918年]]から「''The Little Review''」誌での連載が開始。この雑誌は同時代の実験的な芸術や文学に関心を寄せるニューヨークの弁護士{{仮リンク|ジョン・クイン|en|John Quinn (collector)}}の支援のもとにマーガレット・アンダーソンと{{仮リンク|ジ
: この一件も手伝い、ジョイスは『ユリシーズ』の単行本化を引き受けてくれる出版社を見つけるのは困難であることに気づいたが、[[1922年]]にはパリ左岸で[[シルヴィア・ビーチ]]の経営する[[シェイクスピア・アンド・カンパニー書店]]から上梓することができた。時期をほぼ同じくして [[T・S・エリオット]]の詩『荒地』(''"Waste Land"'')が刊行されていることから、この[[1922年]]という年は英文学における[[モダニズム]]の歴史上とりわけ重要なメルクマールであるといえる。ジョイスのパトロンの一人ハリエット・ショー・ウィーヴァーによって出版された英語版はさらなる困難に直面した。アメリカ合衆国へ出荷された500部が米国政府当局によって押収ののち破棄されたのである。翌年、ジョン・ロドカー([[:en:John Rodker|John Rodker]])は押収されたものの代わりに新しく500部増刷したが、これらもフォークストン([[:en:Folkestone|Folkestone]])でイギリスの税関によって焼却処分された。この本が発禁書という不明瞭な法的立場に置かれたため、やがていくつもの「海賊版」が登場することとなった。これらの海賊版の中でも特に有名なものはアメリカの悪徳出版業者サミュエル・ロス([[:en:Samuel Roth|Samuel Roth]])によって刊行されたものである。1928年に裁判所から出た禁止命令によって出版を取り止めたロスは刑務所へ送られることとなったが、罪状がやはり猥褻罪であり著作権侵害ではなかったところにもこの本の置かれた立場の微妙さが見て取れる(なおロスはこのさい『進行中の作品』の仮題で連載が開始されていた『フィネガンズ・ウェイク』も同時に盗用している)。
[[ファイル:UlyssesCover.jpg|thumb|upright|right|150px|1922年の初版のカバー]]
: 『ユリシーズ』において、ジョイスは登場人物を表現するために意識の流れ、パロディ、ジョーク、その他ありとあらゆる文学的手法を駆使した。[[1904年]][[6月16日]]という一日のあいだに起きる出来事を扱ったこの小説の中に、ジョイスは[[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』の登場人物や事件を現代のダブリンへ持ち込んだ。[[オデュッセウス]](ユリシーズはその英語形)、[[ペネロペ]]、[[テレマコス]]はそれぞれ登場人物レオポルド・ブルーム、その妻モリー・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスによって代置され、神話中の高貴なモデルとパロディ的に対比される。この本はダブリンの生活およびそこに満ちた汚穢と退屈さを余すところなく踏査している。ジョイス自身も「'''たとえダブリンが大災害で壊滅しても、この本をモデルにすればレンガの一個一個に至るまで再現できるだろう'''」と豪語するほどの自信をもっていた。ダブリンに愛想を尽かして故郷を捨てたジョイスだが、この街への郷愁なしにここまで完璧な細密画を描くことは不可能であり、ダブリンに対して愛憎半ばするジョイスのアンビヴァレンスが窺われる。ダブリンの描写をこのレベルまで仕上げるためには、ダブリンのすべての居住用・商業用建築の所有者や入居者を網羅した『''Thom's Directory''』(1904年版)という本が活用された。また、それ以外にも情報や説明を求めたジョイスはまだダブリンに住んでいる友人たちを質問攻めにしてもいる。
: この本は全18章からなる。それぞれの章がおよそ1時間の出来事を扱っており、午前8時ごろから始まって翌朝の午前2時過ぎに終わる。また1章ごとに異なる全部で18通りの文体が用いられているだけでなく、『オデュッセイア』で語られる18のエピソード、これと関連する18種類の色、学問や技術、身体器官が適用・言及される。これらの組み合わせによって形成される作品全体の万華鏡的な梗概([
; 『フィネガンズ・ウェイク』
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: 『ユリシーズ』の執筆を終えたジョイスは、自分のライフワークはこれで完了したと考えたが、まもなくさらに野心的な作品の制作計画を立てた。[[1923年]][[3月10日]]から、ジョイスはやがて『進行中の作品』(''"Work in Progress"'')の仮題をつけられ、のちに『フィネガンズ・ウェイク』(''"Finnegans Wake"'')の正式タイトルを与えられることになる作品にとりかかり、[[1926年]]には最初の2部を完成させた。この年ジョイスはユージーン・ジョラスとマライア・ジョラスに会い、彼ら夫婦の編集する文芸雑誌『トランジション』([[:en:Transition (literary journal)|Transition]])で『進行中の作品』を連載してはどうかとの申し出を受けている。
: その後数年ジョイスはこの新作を迅速に書き進めていったが、1930年代に入ると進捗状況は芳しくなくなる。停滞の要因としては、1931年の父の死、娘ルチアの精神状態に関する懸念、視力の低下を含むジョイス自身の健康上の問題などが挙げられる。こうした困難を抱えながらも執筆は[[サミュエル・ベケット]]を含む若い支持者の力を借りて進められた。このころジョイスは同郷の詩人[[ジェームズ・スティーヴンス]]([[:en:James Stephens (author)|James Stephens]])と親しくなるが、スティーヴンスが優れた文才をもっているばかりでなくジョイスと同じ病院で同じ日に生まれたこと(ジョイスの勘違いで実際には一週間違い)、その名前がジョイス自身と小説中におけるジョイスの分身スティーヴン・ディーダラスのファーストネームの組み合わせであることなどから、迷信深かったジョイスは自分とスティーヴンスには運命的なつながりがあるのだと信じるようになった。さらには『フィネガンズ・ウェイク』を完成させるべきはスティーヴンスであり、原稿を渡して残りの部分を仕上げてもらってから「JJ & S」の名で出版しようという奇妙な計画まで立てた(「JJ & S」は「ジェームズ・ジョイス&スティーヴンス」の頭文字であるが、有名なアイリッシュ・ウイスキーのブランド「ジェムソン」(John Jameson & Sons)の商標[http://www.jameson.ie/]にかけたシャレである)が、結局はジョイスが一人で完成させることができたのでこの計画は実行されなかった。
: 『トランジション』誌において発表された冒頭部分に対する読者の反応は賛否両論で、パウンドや弟スタニスロースのようにジョイスの初期の著作に対して好意的だった人たちから否定的なコメントが寄せられもした。こうした非好意的な反応を退けるべく、[[1929年]]には『進行中の作品』の支持者たちによる批評をまとめた論文集が刊行された。『進行中の作品の結実のための彼の制作をめぐる我らの点検』([[:en:Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in Progress|Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in Progress]])と題したこの論文集の著者にはベケットのほか[[ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ
: ジョイス宅で開かれた彼の47歳の誕生日パーティー([[1929年]][[2月2日]])の席上、ジョイスは最終的に決定した『進行中の作品』の正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』であることを明かし、[[1939年]][[5月4日]]に単行本として出版された。
: 意識の流れや暗喩、自由連想などといったジョイスの文学的手法を極限まで押し進めた『フィネガンズ・ウェイク』は、プロット構成や登場人物の造形に関する従来の慣例をことごとく打ち破っているばかりでなく、複雑で多面的な地口をもとにした特異かつきわめて難解な言語によって書かれている。[[ルイス・キャロル]]の『[[ジャバウォックの詩]]』とも似たアプローチであるが、その複雑さや規模の大きさはこれをはるかに凌駕する。『ユリシーズ』が“都市生活の中の一日”であるとするなら、『フィネガンズ・ウェイク』は“夢の論理の中の一夜”ということができる。『フィネガンズ・ウェイク』において『ユリシーズ』が「“<ins>usyless</ins>ly unreadable Blue Book of Eccles”(どうあがいても読むことのできそうにないエクルズの青い本)<!-- 柳瀬訳を引きたいが……。 -->」として言及されている部分は有名だが、多くの読者や批評家からこれはむしろ『フィネガンズ・ウェイク』にこそふさわしい言い回しだとされてきた。しかしその後の研究によって読者は主な登場人物の配役やプロットについての合意を得ることができるようになった。
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=== ジョイス記念館 ===
[[ファイル:James Joyce Tower.jpg|thumb|right|226px|ジェームズ・ジョイス・タワー]]
ジョイス記念館[[マーテロー塔|マーテロー・タワー]]はジョイス・タワーとも呼ばれ、ダブリン
=== ブルーム
{{Main|ブルームの日}}
『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームがダブリンを彷徨した1904年6月16日にちなみ、毎年6月16日、ダブリンにジョイスの読者が集まり様々な催し物を行う、いわば『ユリシーズ』記念日。集まった人々は登場人物に扮するなどして当時の服装に身を包み、劇中に登場する場所への訪問、『ユリシーズ』の朗読や劇の上映、またパブめぐりなどを行う。ダブリンでは[[ジェイムズ・ジョイス・センター]]がイベント運営を行っている。もともとアイルランドのダブリンが本家だが、近年アメリカ合衆国、日本、ブラジルなどでもブルームズデイを祝う試みがなされた。
なお、[[1904年]][[6月16日]]というのはジョイスが妻ノーラと初めてデートした日である。
=== ジェイムズ・ジョイスの命名 ===
=== 映画化作品 ===
*『[[ノーラ・ジョイス 或る小説家の妻]]』2000年製作、2001年11月日本公開
** 原作『ノーラ ジェイムズ・ジョイスの妻となった女』[[ブレンダ・マドクス]]、[[丹治愛]]監訳、[[集英社文庫]]、2001年
*:[[パット・マーフィー (映画監督)|パット・マーフィー]]監督:ジョイス役は[[ユアン・マクレガー]]、ノーラ役は[[スーザン・リンチ]]。
== 日本語研究 ==
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*[[丸谷才一]]編『ジェイムズ・ジョイス 現代作家論』 [[早川書房]] 新版1992年
*:[[ウンベルト・エーコ]]ほか多数の古典的作家作品論
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
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* [http://www.jamesjoyce.ie/ James Joyce Centre]
* {{worldcat id|id=lccn-n79-56824}}
* [https://www.project-archive.org/0/097.html ジェイムズ・ジョイス「室樂(Chamber Music)」(左川ちか訳)] - ARCHIVE
* {{gutenberg author|id=James_Joyce}}
* {{CAPlink|node/20648|アイルランド国立図書館、ジェイムズ・ジョイスの手稿のデジタル画像を公開|date=2012年4月17日}}
* {{Kotobank|ジョイス}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:しよいす しえいむす}}
[[Category:ジェイムズ・ジョイス|*]]
[[Category:19世紀アイルランドの小説家]]
[[Category:20世紀アイルランドの
[[Category:19世紀アイルランドの詩人]]
[[Category:20世紀アイルランドの詩人]]
[[Category:アイルランド・ポンド紙幣の人物]]
[[Category:ダブリン出身の人物]]
[[Category:1882年生]]
[[Category:1941年没]]
[[Category:アイルランドのアナキスト]]
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