「ミハイル・ヤロスラヴィチ」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
'''ミハイル・ヤロスラヴィチ'''('''{{Lang|ru|Михаил Ярославич}}'''、[[1271年]] - [[1318年]][[11月22日]])は、最初[[トヴェリ]][[公]]([[1285年]]-[[1318年]])、[[従兄弟]][[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]の死後[[ウラジーミル大公]](在位:[[1304年]]-1318年)。別名'''トヴェリのミハイル'''。[[モスクワ大公国|モスクワ]]の[[ユーリー3世]]のライヴァルであり、[[サライ (都市)|サライ]]で[[処刑]]された。[[東方正教会]]の[[聖人]]。
| 人名 = ミハイル・ヤロスラヴィチ
| 各国語表記 = {{lang|ru|Михаил Ярославич}}
| 君主号 = [[ウラジーミル大公]]
| 画像 = Michael & xenia.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = キリストの前に立つミハイル・ヤロスラヴィチと母クセニヤ
| 在位 = [[1304年]] - [[1318年]]
| 戴冠日 =
| 就任式 =
| 祝祷式 =
| 即位式 =
| 別号 =
| 配偶号 =
| 在位2 =
| 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1271年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1318年]][[11月22日]]
| 没地 = [[サライ (都市)|サライ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[トヴェリ]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[アンナ・カシンスカヤ]]
| 子女 = [[ドミトリー・ミハイロヴィチ|ドミトリー]]<br>[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)|アレクサンドル]]<br>[[コンスタンチン・ミハイロヴィチ|コンスタンチン]]<br>[[ヴァシーリー・ミハイロヴィチ|ヴァシーリー]]<br>フェオドーシヤ
| 王家 = [[リューリク家]]
| 王朝 = [[リューリク朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[ウラジーミル大公]][[ヤロスラフ3世]]
| 母親 = クセニヤ・ユーリエヴナ
| 宗教 =
| サイン =
}}
[[Image:35 History of the Russian state in the image of its sovereign rulers - fragment.jpg|thumb|250px|「モンゴルのハーンの前に引き出されたミハイル・ヤロスラヴィチ公」[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]画]]
'''ミハイル・ヤロスラヴィチ'''('''{{Lang|ru|Михаил Ярославич}}'''、[[1271年]] - [[1318年]][[11月22日]])は、最初[[トヴェリ]][[公]]([[1285年]] - [[1318年]])、[[従兄弟]][[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]の死後[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](在位:[[1304年]] - 1318年)。別名'''トヴェリのミハイル'''。[[モスクワ大公国|モスクワ]]の[[ユーリー3世]]のライヴァルであり、[[サライ (都市)|サライ]]で[[処刑]]された。[[東方正教会]]の[[聖人]]。
 
== 生涯 ==
*[[ヤロスラフ3世]]の次男として生まれる。母は[[ノヴゴロド]]大貴族の娘クセニヤ・ユーリエヴナ。
*1285年 - 兄スヴャトスラフの死後、[[トヴェリ]]公となり、トヴェリに石造教会を建築。
*1286年 - 軍を率いて[[リトアニア大公国|リトアニア]]軍を退ける。
*1288年頃 - 当時の[[大公]][[ドミトリー・アレクサンドロヴィチ]]に恭順の意を示さなかったが故に、大公と対立。以後、ウラジーミル大公と長く対立する。
*1293年 - [[サライ (都市)|サライ]]に行き、当時の[[ハーン|ハン]]、[[トクタ]]からトヴェリ公国の[[ヤルルィク]]を受け取る。
*1295年 - アンドレイ・アレクサンドロヴィチからの攻撃に対する共同防衛条約を[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]と締結。
*1300年 - [[ドミトロフ]]での諸公会議に出席し、全出席者間の和解を目指した。
*1302年 - [[ネヴァ川]]に[[スウェーデン]]軍が建てたランデスクロン[[要塞]]を破壊するために大公軍を率いて出撃する。
*1304年 - アンドレイ・アレクサンドロヴィチの死後、ウラジーミル大公位を獲得する。「[[全ルーシ(ロシア)]]の大公」を自称した最初の大公となる。
*1311年 - [[ニジニ・ノヴゴロド]]に遠征する。
*1312年 - ノヴゴロドと対立、代官を引き上げる。
*1313年 - [[ジョチ・ウルス]](キプチャク汗国)の新ハンである[[ウズベク・ハン]]の許に向かい、ヤルルィクを得る。1315年に帰国。
*1317年 - ウズベク・ハンは、モスクワ大公[[ユーリー3世 (モスクワ大公)|ユーリー3世]]にウラジーミル大公の称号を与え、また援軍を送った。この年[[12月22日]]、ミハイルはユーリー軍をトヴェリから40km離れたボルテネヴォに破った。翌1318年に、この戦いについての申し開きを求められたミハイルは、ウズベク・ハンの宮廷がある[[サライ (都市)|サライ]]に向かい、そのまま11月に、ユーリー3世の奸計にかかりユーリーの奴隷に刺殺された。
*1319年9月 - ミハイルの遺骸がトヴェリに戻された。後日、[[ロシア正教会]]はミハイルを[[列聖]]し、トヴェリの[[守護聖人]]とした。
 
==家系子女==
[[ロストフ公]]ドミトリー]]の娘[[アンナ・カシンスカヤ|アンナ]]を妻とし、息子4人娘1人、計5人の子を得た。
 
#[[ドミトリー・ミハイロヴィチ|ドミトリー]](1299年 - 1326年) - トヴェリ公、のちウラジル大公在位:1322年-1326年)
#[[ミハイル・アレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)|アレクサンドル]](1301年 - 1339年) - トヴェリ公、のちウラジル大公在位:1322年-1326年)
#[[コンスタンチン・ミハイロヴィチ|コンスタンチン]](1306年 - 1346年) - トヴェリ公
#[[ヴァシーリー・ミハイロヴィチ|ヴァシーリー]](1368(? - 1368年以後没、) - トヴェリ公
#フェオドーシヤ
 
{{先代次代|[[トヴェリ公]]|1285年 - 1318年|[[スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ (トヴェリ公)|スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ]]|[[ドミトリー・ミハイロヴィチ]]}}
[[Category:ウラジーミル大公|みはいる やろすらういち]]
{{先代次代|[[ウラジーミル大公国#歴代大公|ウラジーミル大公]]|13代<br>1304年 - 1318年|[[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]|[[ユーリー3世]]}}
[[Category:聖人|みはいる やろすらういち ]]
{{ロシア君主一覧}}
[[Category:1271年生|みはいる やろすらういち]]
{{Normdaten}}
[[Category:1318年没|みはいる やろすらういち]]
[[Category{{DEFAULTSORT:聖人|みはいる  やろすらういち ]]}}
 
[[Category:ウラジーミル大公|みはいる やろすらういち]]
[[bg:Михаил II (Владимирско-Суздалско княжество)]]
[[Category:正教会の聖人]]
[[en:Mikhail Yaroslavich]]
[[Category:ユーリー家]]
[[fi:Mihail Jaroslavitš]]
[[Category:リューリク朝]]
[[fr:Michel III le Saint Vladimirski]]
[[Category:13世紀ヨーロッパの君主]]
[[it:Mikhail Jaroslavič]]
[[Category:14世紀ヨーロッパの君主]]
[[pl:Michał Twerski]]
[[Category:13世紀ロシアの人物]]
[[ru:Михаил Ярославич (князь тверской)]]
[[Category:14世紀ロシアの人物]]
[[Category:1271年生]]
[[Category:1318年没]]