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|isbn=4634090104}}</ref>。繭の生産は[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[ブラジル]]などで盛んに行われている。
現在、[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]]を中心に『蚕業革命』として養蚕業の復興を期して新規養蚕技術の開発・研究が行われている<ref>{{Cite web|和書|title=蚕業革命 {{!}} 農研機構|url=https://www.naro
== 歴史 ==
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しかしながら国内生産で全ての[[需要]]を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの[[輸入]]は[[江戸時代]]に至るまで続いた。代金としての[[金]][[銀]][[銅]]の流出を懸念した[[江戸幕府]]は養蚕を推奨し、諸藩もが殖産事業として興隆を促進した。結果、[[幕末]]期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになった。日本が[[鎖国]]から[[開国]]に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な[[輸出]]品となった。
[[江戸時代]]には、民間において様々な養蚕技術書が出版された。著名なものとしては、[[1803年]](享和3年)に[[上垣守国]]が[[出石藩]]の協力を得て『養蚕秘録』を出版した。この書は国内外で高く評価された。また[[シーボルト]]によって同書は持ち出されて『''Yo-san-fi-rok''』として翻訳されている<ref>{{Cite web|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA1740763X|title=Yo-san-fi-rok : l'art d'élever les vers à soie au Japon|accessdate=2020-04-17|publisher=CiNii}}</ref>。また、1840年(天保11年)には中村善右衛門が当時の新技術である体温計を応用して『蚕当計』を考案し、『蚕当計秘訣』を発行した<ref>{{Cite web|和書|title=蚕当計と中村善右衛門|url=http://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-bunkazai/fureai/kakonotenji/fureai05-01-00/fureai05-01-10.html|website=福島市|accessdate=2020-04-17|language=ja|last=福島市}}</ref>。この技術は当時は勘などに頼っていた養蚕を、温度管理によって安定させる『温暖育』の普及によって改良することになった。
[[明治時代]]に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・[[絹糸]]は「外貨獲得産業」として重視され<ref name="yamakawa" />、日本の[[近代化]]([[富国強兵]])の礎を築いた。科学技術研究とともに養蚕技術の発展は行われた。著名なものとしては、東京帝国大学の[[外山亀太郎]]による[[メンデルの法則]]が動物でも成り立つことの証明・カイコにおいて品種間で交雑することによって、頑健で糸の品質が良いカイコが作出できるという発見がある。皇后は、神事として毎年「ご養蚕」を行っているが、これは1871(明治4)年3月14日、[[昭憲皇后]]によって始められたものである<ref>{{Cite web|和書|title=稲作と養蚕 天皇と皇后が受け継ぐ「伝統」のありかた – 皇室問題研究室|url=https://imperatoria.net/archives/1006|website=imperatoria.net|accessdate=2020-06-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=皇室と蚕の伝統継ぐ 皇后雅子さま、初の御養蚕始の儀:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASN5C33W9N58UTIL02T.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-06-05|language=ja}}</ref><ref>[http://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/goyousan.html 「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」展の開催について](2014年)、[[宮内庁]]、2016年1月6日閲覧。</ref>。1873年4月28日、蚕種取締規則が定められる(太政官)。
1875年2月22日、蚕種取締規則廃止、蚕種製造組合条例・組合会議局規則が定められる(太政官布告)(1月1日遡及施行)。
1878年5月4日、蚕種製造組合条例・組合会議局規則 廃止。
[[雑種第一代|一代交雑種]](雑種第一代、F<small>1</small>)における[[雑種強勢]]の発見はその後すぐに製糸業へと応用された。[[片倉工業|片倉製糸]]を率いる[[今井五介]]などが中心となった「蚕種統一運動」による「一代交配蚕種普及団」によって民間主導による蚕種製造が急速におこなわれ、一代交雑種の普及・生糸の品質向上につながった<ref>片倉製糸の蚕種生産体制の構築 http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/takanashi_44.pdf</ref>。現代では一代交雑種の発見・普及を記念する碑が[[松本市]]の「蚕糸記念公園」に建てられている<ref>{{Cite web|和書|title=蚕業革新発祥記念|url=https://840.gnpp.jp/sangyokakushin/|website=発祥の地コレクション|accessdate=2020-04-17|language=ja}}</ref>。
[[日露戦争]]における[[軍艦]]をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである<ref>東村山ふるさと歴史館編2002『繭と糸 : 養蚕と機織の道具と信仰 : 特別展 』東村山ふるさと歴史館</ref>。もうひとつの背景としては、同時期において[[ヨーロッパ]]でカイコの[[伝染病]]([[微粒子病]])の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。[[ルイ・パスツール]]は、微粒子病が原虫由来であること・母蛾検査によって食い止めることができることを発見したが、ヨーロッパにおける養蚕業の衰退を止めることはできなかった。[[1900年]]頃には日本は中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1917年には『大日本蚕業家名鑑』が出版されている{{sfn|扶桑社編|1917}}。
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敗戦後、食料増産を優先したため養蚕業の復興は遅れたが、1950年代に[[復興]]することとなる。しかし戦前のようには輸出できず、1958年には養蚕業危機に直面し、桑園2割減反の行政措置を取られる<ref name=":0">http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/zentai.pdf</ref> など、水を差されることもあった。
高度経済成長によって内需が伸びてくると、1966年の日本蚕糸事業団法施行と各地での養蚕団地の取り組みなどもあり、内需に応じる形で生産が増加し、[[東京都下]]([[三多摩]])などを中心にようやく[[1970年代]]に再度のピークを迎えた<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999584|title=現代蚕糸業の社会経済的性格と意義 : 持続可能な農村社会構築への示唆|accessdate=2017-11-13|author=矢口克也|date=2009-10|publisher=国立国会図書館}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.maff.go.jp/kanto/seisan/engei/tokusan/sanchi/index.html|title=養蚕の動向|accessdate=2017-11-13|publisher=関東農政局}}</ref>。とはいえ、繭生産量、生糸生産量とも、1935年の半分以下に過ぎず、また1962年(昭和37年)の生糸輸入自由化<ref>https://www.maff.go.jp/j/study/sansigyou/01/pdf/data3.pdf</ref> を経て、このころには一大輸入国に転じていた<ref name=":0" />。その後、一元輸入制度導入、蚕糸業振興資金の設置等が行われるも、1973年の第一次オイルショック以降、価格の暴落・農業人口の減少・化学繊維の普及で衰退が進み、1994年(平成6年)にはWTO協定で再度自由化され、1979年には収繭量1トン以上の大規模養蚕農家だけでも15,497戸あったところ、2016年には全国の養蚕農家数は349戸にまで減少している<ref name=":1" /><ref name=":2" />。都下の養蚕業者数も全盛期の30軒<!-- 35軒? 右出典の朝日新聞記事のうろ覚え --><ref>2015年12月2?<!-- おそらく28-30日-->日[[朝日新聞]]朝刊より</ref> から2014年には6軒まで減少した。
数万頭の蚕の生育度合を調整して同じタイミングで上蔟(じょうぞく:蚕が繭を作り出すこと)させるなど、日本の養蚕農家には特筆されるべき技術・知恵が残っている<ref>[http://www.nhsoken.co.jp/whatis/whatis-4/ にちはら総合研究所-冬虫夏草とは]</ref>。
2000年に[[遺伝子組換えカイコ|遺伝子組み換えカイコ]]の作出に成功して以来、現[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]]・群馬蚕糸技術センターなどの研究機関は遺伝子組み換えカイコの研究・実用化を目指している。2017年、[[カルタヘナ法]]による遺伝子組み換えカイコの第一種使用が承認され、養蚕農家から[[緑色蛍光タンパク質|GFP]]蛍光シルクを作るカイコの飼育・繭の出荷が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=前橋の一般農家がGM蚕の緑色蛍光繭出荷 量産は世界初|url=https://www.sankei.com/article/20171102-LAOYYV7P65OAHI3ZJIY7N4QZZE/|website=産経ニュース|date=2017-11-02|accessdate=2020-04-17|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。遺伝子組み換えカイコの一般農家による飼育は世界初である。
なお、[[天皇家]]では[[明治4年]]から皇后が代々養蚕を行なっており、現在の雅子
=== 欧州での歴史 ===
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== 産地 ==
:日本の養蚕業の主産地として、[[南東北]]、[[北関東]]、[[甲信地方]]、[[南九州]]などがあった。繭の集散地として栄えた[[山形県]][[鶴岡市]]、[[福島県]][[梁川町]]、[[埼玉県]][[深谷市]]、埼玉県[[熊谷市]]、[[富山県]][[富山市]][[八尾町]]、[[長野県]][[上田市]]、[[愛知県]][[豊橋市]]、[[京都府]][[綾部市]]は'''蚕都'''と、[[東京都]][[八王子市]]は'''桑都'''と呼ばれた。ほか[[群馬県]][[中之条町]]の「[[六合赤岩]]」、[[石川県]][[白山市]]の「[[白山市白峰|白峰]]」、[[山梨県]][[甲州市]]の「[[甲州市塩山下小田原上条伝統的建造物群保存地区|塩山下小田原上条]]」、[[長野県]][[東御市]]の「[[海野宿]]」、[[兵庫県]][[養父市]]の「[[大屋町大杉]]」の各地区は、種別「養蚕集落(町)」として国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選定されている。▼
▲;日本
▲:日本の養蚕業の主産地として、[[南東北]]、[[北関東]]、[[甲信地方]]、[[南九州]]などがあった。繭の集散地として栄えた[[山形県]][[鶴岡市]]、[[福島県]][[梁川町]]、[[埼玉県]][[深谷市]]、埼玉県[[熊谷市]]、[[富山県]][[富山市]][[八尾町]]、[[長野県]][[上田市]]、[[愛知県]][[豊橋市]]、[[京都府]][[綾部市]]は'''蚕都'''と、[[東京都]][[八王子市]]は'''桑都'''と呼ばれた。
▲;中国
:[[浙江省]]、[[江蘇省]]、[[山東省]]、[[広東省]]などが主要な養蚕地となっている。これらの地域では、繭から絹糸を取った後に残る[[カイコガ]]の[[蛹]]を[[昆虫食]]の[[食材]]として利用して来た経緯があり、近年は、むしろ蛹を得て売るためにカイコガを育てる例もみられる。
:[[シルクロード]]沿線の[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[ウズベキスタン]]などでも行われ、2022年に当該地域の絹の生産とともに[[UNESCO]]の[[無形文化遺産]]に登録される<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Sericulture and traditional production of silk for weaving |url=https://ich.unesco.org/en/RL/sericulture-and-traditional-production-of-silk-for-weaving-01890 |website=ich.unesco.org |access-date=2022-12-03 |language=en}}</ref>。
:[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]、[[ルッカ]]、[[ティーヴァ]]、[[コリントス]]、[[ヴェネツィア]]、[[フィレンツェ]]、[[リヨン]]、[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]で、育てられている。
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== 関連項目 ==
{{Wikt|養蚕}}
* [[和服]]
* [[蚕箔]] - 養蚕用具
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* [http://core.kyoto3.jp/silk.html 明治時代 生糸の輸出用レッテル (これなあに)]
* [https://www.youtube.com/watch?v=CSD2XM5xfWg 遺伝子組換え技術がもたらす蚕業革命]
{{主要産業}}
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