「佐野常民」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2021年12月}}
{{政治家
|人名 = 佐野 常民
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|国略称 = {{JPN1870}}
|生年月日 = [[1823年]][[2月8日]]<br>([[文政]]5年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]])
|出生地 = [[File:Flag of Japan (WFB 2000
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1823|2|8|1902|12|7}}
|死没地 = {{JPN1870}}、[[東京府]][[東京市]]
|出身校 = [[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]]
|前職 = [[武士]]([[佐賀藩|佐賀]][[藩士]])<br>[[龍池会]](現・[[日本美術協会]])会頭
|称号・勲章 = [[正二位]]<br> [[File:JPN Toka-sho BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br>[[伯爵]]<br>[[日本赤十字社]][[名誉社員]]
|配偶者 = 佐野駒子
|子女 = [[佐野常羽]]
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[[1823年]]([[文政]]6年)、 佐賀藩士[[下村充贇|下村三郎左衛門]](充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・[[佐賀市]])に生まれる。幼名は鱗三郎。[[1831年]]([[天保]]2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・[[鍋島斉直]]から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・[[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]]に学び、[[1837年]](天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。
[[1839年]](天保10年)、佐賀に帰り、弘道館で[[考証学]]を、松尾塾で外科術を学ぶ。[[1842年]](天保13年)、佐野家の養女・駒子と結婚する。[[1846年]]([[弘化]]3年)、[[京都]]で広瀬元恭の時習堂に入門し、[[1848年]]([[嘉永]]元年)には[[大阪|大坂]]の[[緒方洪庵]]の[[適塾]]で学び、さらに[[紀伊国]]で[[華岡青洲]]が開いた春林軒塾に入門する。適塾では[[大村益次郎]]ら[[明治維新]]で活躍する多くの人材と知遇を
=== 幕末動乱 ===
[[1849年]]([[嘉永]]2年)、[[江戸]]で[[伊東玄朴]]の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では[[戸塚静海]]にも学んでいる。この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている
[[1855年]]([[安政]]2年)[[6月]]に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が[[長崎海軍伝習所]]を開設し、佐賀藩から常民ら四十八名が第一期生として参加する。この頃に藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となる [[1857年]](安政4年)、佐賀藩が[[オランダ]]から購入した飛雲丸の船将となり、翌[[1858年]](安政5年)、[[三重津海軍所]]の監督となる。[[1863年]]([[文久]]3年)、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。[[1867年]]([[慶応]]3年)、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に参加し、その万博会場で[[国際赤十字]]の組織と活動を見聞し、オランダに行き、[[日進 (スループ)|日進]]の建造を発注する。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌[[1868年]](明治元年)に帰国。 === 明治 ===
[[1870年]]([[明治]]3年)[[3月]]~[[10月]]までの8か月間、[[兵部省 (明治時代)|兵部少丞]]に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。しかし、[[増田明道]]ら他の海軍担当官との関係は良好とは言い難く、佐野の奮闘は空回りでしかなかった。罷免についても同僚の[[船越衛]]は同情している。[[1871年]](明治4年)、
[[ファイル:SanoTsunetami-hakuaisha-ceremony.jpg|200px|thumb|有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民]]
[[1875年]](明治8年)、元老院議官となる。[[1877年]](明治10年)2月に[[西南戦争]]が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で[[有栖川宮熾仁親王]]から博愛社設立の許可を得る。博愛社総長に[[小松宮彰仁親王|東伏見宮嘉彰親王]]が就任。
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[[1878年]](明治11年)、[[大給恒]]らと[[日本赤十字社|博愛社]]の総副長となる。[[1879年]](明治12年)、日本美術の海外流出を防ぐために、[[龍池会]](後の[[日本美術協会]])と呼ばれる美術団体を発足し、会頭に就任する。亡くなるまで会長を務め、芸術家の保護と育成に力を尽くす。同年10月には中央衛生会会長に就任する。[[1880年]](明治13年)、[[大蔵卿 (太政官) |大蔵卿]]に就任するが、翌年の[[明治十四年の政変|政変]]で辞任する。
[[1888年]](明治21年)、枢密顧問官に就任する。7月、[[
[[1882年]](明治15年)、元老院議長に就任する。[[1883年]](明治16年)、大日本私立衛生会(後の日本衛生会→[http://www.jpha.or.jp/sub/menu01.html 日本公衆衛生協会])が発足し、会頭に就任する。[[1886年]](明治19年)、東京飯田町に博愛社病院を開設する。
[[ファイル:Japanese-Red-Cross-Membership-Certificate-1902.jpg|200px|thumb|正会員認定証(1902年)]]
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[[ファイル:伯爵佐野常民之墓.jpg|200px|thumb|伯爵佐野常民之墓]]
[[1902年]](明治35年)、東京の自宅で死去、
[[File:Japanese Red Cross 75th Anniversary stamp 4sen.jpg|thumb|200px|right|1939年11月15日 日本赤十字社創立75周年記念切手]]
== 栄典 ==
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* [[1888年]](明治21年)[[10月20日]] - [[正三位]]<ref name="tunetami"/>
* [[1895年]](明治28年)[[12月20日]] - [[従二位]]<ref name="tunetami"/><ref>『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[12月7日]] - [[正二位]]<ref name="tunetami"/><ref name="#1">『官報』第5831号「叙任及辞令」1902年12月9日。</ref>
;勲章等
* [[1878年]](明治11年)[[6月28日]] - [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<ref name="tunetami"/>
* [[1882年]](明治15年)[[11月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref name="tunetami"/><ref>[https://web.archive.org/web/20190313101746/http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kyoku3.htm 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)]</ref>
* [[1887年]](明治20年)[[5月24日]] - [[子爵]]<ref name="tunetami"/><ref>『官報』第1169号、明治20年5月25日。</ref>
* [[1889年]](明治22年)[[11月25日]] - [[記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref name="tunetami"/><ref>『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。</ref>
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* [[1895年]](明治28年)
** [[10月31日]] - [[伯爵]]<ref name="tunetami"/><ref>『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。</ref>
** [[11月18日]] - [[従軍記章#
* [[1901年]](明治34年)[[2月4日]] - [[賞杯|御紋付御盃]]<ref name="tunetami"/>
* [[1902年]](明治35年)[[12月7日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref name="tunetami"/><ref
* [[名誉社員#名誉社員|日本赤十字社名誉社員章]]
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== 記念館 ==
佐賀市川副町には「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」があり佐野常民に関する常設展示がある(2021年9月25日に「佐野常民記念館」からリニューアルオープン)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/745436|title=世界遺産、見えた 佐賀市の三重津海軍所跡、施設リニューアル 名称は「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」に|accessdate=2021/09/25|publisher=佐賀新聞}}</ref>。
== エピソード ==
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*[[朝日恵子]]「佐野常民―近代国家のパイオニア」、『九州の蘭学-越境と交流』、303-310頁。<br> [[ヴォルフガング・ミヒェル]]・[[鳥井裕美子]]・[[川嶌眞人]] 共編、(京都:[[思文閣出版]]、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5
*[[吉川龍子]]『日赤の創始者 佐野常民』[[吉川弘文館]]、2001年。ISBN 4-642-05518-5
== 関連作品 ==
; 小説
* [[高橋克彦]]『火城 幕末廻天の鬼才・佐野常民』(1992年5月 PHP研究所 / 1995年9月 PHP文庫 / 2001年11月 角川文庫 / 2007年12月 PHP研究所 / 2010年2月 文春文庫)
== 関連項目 ==
*[[西澤之助]]
*[[起立工商会社]]
*[[亜細亜大博覧会]]
== 外部リンク ==
*[https://sano-mietsu-historymuseum.city.saga.lg.jp/ 佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館]
*[
*[http://www.pref.saga.lg.jp/sy-contents/sekai-isan/ 三重津海軍所跡が世界遺産に]{{リンク切れ|date=2021年12月}} - 佐賀県
*[https://www.jrc.or.jp/webmuseum/ 赤十字WEBミュージアム]
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