「木賃宿」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
add image |
||
(26人の利用者による、間の30版が非表示) | |||
1行目:
{{出典の明記|date=2023-10}}
[[Image:職人宿a.jpg|thumb|240px|今も地方に残る木賃宿]]▼
▲[[Image:職人宿a.jpg|thumb|240px|今も地方に残る木賃宿([[丹波篠山市]]、現在は廃業)]]
本来の意味は、[[江戸時代]]以前の[[街道]]筋で、[[燃料]]代程度もしくは相応の宿賃で[[旅人]]を宿泊させた最下層の[[旅籠]]の意味である。宿泊者は大部屋で、[[寝具]]も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「[[薪]]」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。'''木銭宿'''(きせんやど)ともいう。また、商人宿、職人宿などを含む場合もある。▼
'''木賃宿'''(きちんやど)は、日本の[[宿泊施設]]の種類の一つ。
== 概要 ==
▲本来の意味は、[[江戸時代]]以前の[[街道]]筋で、棒鼻と呼ばれた[[宿場]]町の外れに位置し、[[燃料]]代程度もしくは相応の宿賃で[[旅人]]を宿泊させた最下層の[[旅籠]]の意味である。宿泊者は大部屋で、[[寝具]]も自己負担が珍しくなく、
[[File:Kisokaido49 Mitake.jpg|thumb|260px|left|[[木曽海道六十九次]]に描かれた木賃宿]]
宿場制度のなくなった明治以後は単に安価で粗末な宿泊施設や安宿を意味する言葉となった。明治20年の「宿屋営等取締親則」においては、木賃宿を宿泊施設の一形態として定義し「飲食を供せず、薪炭その他の諸費・席類を得て、以て人を宿泊せしむるもの」となっている。場所も街道から都市部のいわゆる貧民街に増加し、労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟となった。明治末期に[[横山源之助]]、[[幸徳秋水]]などが調査を行い、体験記録を残しているが、「見るにも聞くにもただただ驚き恐るるのほかなき別世界、黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」と表現されるものであった。「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができるのもこの頃である。この形態の木賃宿は現代まで存続し、[[簡易宿所]]となった。 {{main|簡易宿所}}▼
[[File:Minakuchi Gyosho Tokaido.jpg|thumb|260px|left|[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]に描かれた木賃宿]]
▲[[宿場]]制度の
木賃宿の中には、家族連れで継続的に宿泊するものには、1室を貸し切り、家族であれば何人宿泊してもよいというものもあった。[[1931年]][[6月23日]]、警視庁は、木賃宿組合連合会の希望で木賃宿の名称を簡易旅館に改正決定した<ref>報知新聞</ref>。[[1932年]]12月末時点で、全府県で営業する木賃宿は14451軒であった。東京地方では警視庁令で木賃宿営業地が限定され、1932年中に東京の木賃宿478軒に宿泊した者は、33万4138人(男30万1360人、女3万2778人)である。この形態の木賃宿は現代まで存続し、[[簡易宿所]]となった。
{{Main|簡易宿所}}▼
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==▼
{{Commonscat}}
▲簡易宿所
▲==関連項目==
▲*[[宿場町]]
*[[木銭米代]]
*[[ゲストハウス]]
*[[ライダー
*[[神戸市のスラム問題]]
== 外部リンク ==
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798737 木賃宿](魔窟叢書:第1編) / 原田道寛(東風) 著(大学館、1902)
{{日本の建築}}
{{宿泊施設}}
{{DEFAULTSORT:きちんやと}}
|