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Bunchu1747 (会話 | 投稿記録)
 
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三味線方は、中棹の紅木[[三味線]]と象牙の[[撥]](ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、[[鳥羽屋里長]]などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して[[明治]]期に至るまで[[岸澤式佐]]を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣(かたぎぬ)、太夫は蛸足(たこあし)と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である<ref>「[http://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3426 常磐津節]」歌舞伎用語案内</ref>。
 
太夫3人・三味線2人(二挺三枚)が江戸時代の床(常磐津出語りの出演メンバー)であったが、現在は[[劇場]]の大型化に伴い、太夫4人・三味線3人の床(三挺四枚)となっており、基本的に舞台下手(しもて)に位置することが多い。舞台下手は、[[妖怪]]・[[亡霊]]・動物の精・[[妖術]]使いなどキワモノの役どころが登場する「[[迫|スッポン]]」、歌舞伎役者が演技の大きな見せ場に出たり引っ込んだりする「[[花道]]」、それに花道を通る際に一度立ち止まり、何らかの仕草や見の所作をする「七三(しちさん)」に近く、客席から見ると演奏方では最も目に留まる場所になっている。
 
現在では歌舞伎伴奏のほか、[[日本舞踊]]の伴奏、素浄瑠璃(舞踊を伴わない太夫と三味線のみでの演奏)の演奏会などで頻繁に演奏されている。また、素浄瑠璃作品には、歌舞伎役者のセリフ([[科白]]、常磐津では[[台詞]])を豊富に含んでいるものが多く、あまたある三味線音楽の中でもセリフの充実さが群を抜いているため、[[歌舞伎役者一覧|歌舞伎役者]]や[[日本舞踊]]家が口跡(こうせき)向上として常磐津を嗜むことが多い。この特色上、常磐津は江戸時代から現代にいたるまで、実演鑑賞のみならず習い事としても人気が高い。
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[[ファイル:Toyokuni.jpg|サムネイル|常磐津連中の出語り図。柿色の肩衣と蛸足と呼ばれる見台が特徴。『御曹司牛若丸』常磐津豊後大掾連中。1860年。[[歌川国貞]](三代目歌川豊国)作の[[錦絵]]。]]
京都の生まれで初代[[都一中]]に学んだ[[宮古路豊後掾|都国太夫半中]]は、享保8年(1723年)に師が没すると都路国太夫と改名して独立。劇的というよりは情緒的な芸風であったという。享保15年には、さらに[[宮古路豊後掾|宮古路豊後]]と改名し豊後節を創始。享保17年からは高弟である[[常磐津文字太夫|宮古路文字太夫]]を伴い名古屋に進出する。享保19年正月、名古屋で実際にあった心中事件を題材とした出世作「[[睦月連理椿]]」で大好評を得る<ref name="yasuda">『常磐津節の基礎的研究』安田文吉著、1992年、35頁、ISBN 4-87088-529-8  C3395</ref>。同年、高弟文字太夫を名古屋に残してさらに江戸に進出する。播磨座で「おさん伊八道行」を演じ好評を受け、掾号を[[受領]]して[[宮古路豊後掾]]橘盛村となり、大劇場である江戸[[中村座]]に進出する。当時は豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したが、享保7年から男女相対死(=心中)が法令で禁じられており、煽情的とされ[[心中]]と結び付けられた豊後節は弾圧を受けてしまう。元文元年(1736年)には、文字太夫出演の[[市村座]]「小夜中浅間嶽」に対し江戸[[北町奉行]]が興行中止を命令。元文3年に江戸での舞台を文字太夫ほか弟子にまかせ、豊後掾は西に戻り京阪の劇場で活躍する。元文4年には、[[浄瑠璃]][[太夫]]の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること、などが禁止され、特に[[宮古路豊後掾|豊後節]]の浄瑠璃語りが非常に厳しい弾圧を受ける。
[[ファイル:Utamaro-tokiwazu2MET DP141281.jpg|代替文=|サムネイル|[[喜多川歌麿]]作の[[浮世絵]]。常磐津の定紋である角木瓜が描かれた提灯に照らされた女性が、付き人と共に雪が降る夜道を歩いている。]]
元文5年に豊後掾が病死すると、延享2年(1745年)に宮古路加賀太夫が脱退([[新内節]])、宮古路園八([[宮園節]])なども脱退し分派活動が起こる。高弟である宮古路文字太夫も、延享4年(1747年)に関東文字太夫と改名したが、北町奉行により禁止され、その帰り際に住居がある日本橋檜物町(ひものちょう)に常盤橋を渡って戻る途中、師である豊後掾の本名「石津左司馬」の津を取り常盤津としたという説が有力である。後日、「皿」では割れてしまい縁起が良くないので「石」に変更され、現在では「常磐津」と明記するのが正しいとされている。寛延元年(1748年)に豊後節から共にしていた弟分の初代[[常磐津小文字太夫]]が常磐津を抜け、のちの[[清元節]]の前身である[[富本節]]を創設。常磐津節は[[歌舞伎]]との関係を密接にし、扇情的だった豊後節より芸質の向上をめざし、[[義太夫節]]を取り入れ豪快かつ勇壮さをもちながら品をよくし、舞踊との結合に相応しく明確な曲風に移り変わった(例:蜘蛛糸梓弦)。この時代の三味線は初代佐々木市蔵、二代目岸澤古式部などが勤めたが、明和5年(1768年)に佐々木市蔵が亡くなると、初代文字太夫がタテ三味線に岸澤古式部を起用したことから佐々木派の三味線弾きから不満が起こり、常磐津志妻太夫、造酒太夫らが脱退し、それぞれ豊名賀派、富士岡派として一派を形成したが、前者は二代で後者は一代で消滅した。
[[ファイル:Hutaomote.jpg|サムネイル|[[変体仮名]]によって詞章(歌詞)が書かれた正本『両顔月姿絵(双面)』。]]
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=== 文化文政期 ===
[[ファイル:稽古風景.jpg|サムネイル|長屋での常磐津稽古の様子。女師匠が町人たちに稽古をつけて賑わっている。女師匠の隣には用心棒がいる。]]
家元派の人々に支えられた二代目小文字太夫は、文化4年に[[市村座]]でタテ語りとして初舞台を勤めた。文化5年に元服し[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]の弟分となるが、病気等による休演が多かった。文政2年に三代目文字太夫を襲名するが、同年12月には病気の為に夭折する。源太(文化5年)、三つ人形(文政元年)などを初演した。この時、江戸歌舞伎の繁栄はいよいよ頂点に達し、舞踊においても「変化舞踊」と呼ばれる新たな分野が登場した<ref>[httphttps://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8929147_po_geppo1501.pdf?contentNo=1 国立国会図書館の蔵書から 今月の一冊『踊獨稽古』北斎の描いた踊りの教本]川本勉、国立国会図書館月報646号 2015.1 </ref>。常磐津はこの動きに敏感に反応し、「[[景清]]」「角兵衛」などの佳品を生むと同時に、[[長唄]]や[[富本節]]などとも積極的に掛合を行うようになり、芸質の高まりを見せることになる。江戸歌舞伎の繁栄は弟子・稽古人・愛好者などの増加にも影響し、多くの女流(女性演奏家)が活躍し隆盛を極めた。現在でも[[江戸時代]]を題材にした[[時代劇]]などで「常磐津の女師匠」が頻繁に登場するのもこのためである。
 
=== 幕末期 ===
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=== 明治期 ===
[[ファイル:Komojidayu6.jpg|サムネイル|江戸[[中村座]]寿狂言口上の錦絵。右手最奥に六代目[[常磐津小文字太夫]]。初代河原崎権十郎(のちの[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]])、十三代目市村羽左衛門(のちの[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]])、[[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]らと共に画かれている。座頭は[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]。1864年10月。]]
[[ファイル:Hirosige3-tokiwazu-enoshima.jpg|サムネイル|東京常磐津総師匠[[江ノ島]]参詣の図。家元名義を預かっていた佐六文中未亡人ツネの時代のもの。江ノ島には芸能の神である[[弁財天]]が祀られている。[[歌川広重 (3代目)|三代目歌川広重]]作。]]
 
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=== 大正・昭和期 ===
[[ファイル:Mojitayu6.jpg|サムネイル|二代目常磐津豊後大掾(六代目常磐津文字太夫)・七代目[[常磐津文字太夫]](九代目常磐津小文字太夫)襲名披露の図。]]
大正15年に、六代目文字太夫は息子に七代目として文字太夫を譲り、二代目常磐津豊後大掾を襲名。親子で開曲された代表曲に「佐倉」「[[権八]]」などがある。昭和2年には第一期常磐津協会が発足し、七代目文字太夫を会長に置き、二代目常磐津豊後大掾と六代目岸澤古式部とがそれぞれ相談役として座り、常磐津岸澤の分離は完全におさまる。昭和16年には、関西に発展を求めた七代目文字太夫により、関西常磐津協会が発足。この時代の歌舞伎興行は、三代目松尾太夫、三代目文字兵衛が数多く出勤していた。三代目文字兵衛は近代の常磐津、ひいては邦楽界を代表する作曲家であり、代表曲として「独楽」「椀久」「松の名所」などがある。三代目松尾太夫のあとは、三東勢太夫、千東勢太夫の兄弟へと代替わりし、芝居小屋から劇場への大型化に伴い、従来よりも調子が高く華やかな芸風の千東勢太夫が三代目文字兵衛と組み出勤する。その後、千東勢太夫は菊菱派の流れをくむ菊三郎と組み、この二人は弟子たちと共に多くの歌舞伎興行を勤め、数多の音源をレコードに残している。昭和28年に三代目文字兵衛が[[日本芸術院]]会員に任命され、昭和30年には[[重要無形文化財]]保持者の各個認定(いわゆる[[人間国宝]])を常磐津で初めて受ける。次いで昭和41年には常磐津菊三郎が人間国宝に認定される。菊三郎の代表曲には「菊の盃」「菊の栄」などがある。昭和56年には、八代目常磐津文字太夫を初代会長とした常磐津節保存会が、[[重要無形文化財]]の保持者として総合認定されている<ref>「[https://kunishitei.bunka.go.jp/bsysheritage/maindetails.aspdetail/303/106 国指定文化財等データベース]」文化庁</ref>。
 
 
== 家元 ==
[[宗家]]・[[家元]]は代々[[常磐津文字太夫]]もしくは[[常磐津小文字太夫]]が継承している。当代の宗家家元は十七世家元九代目[[常磐津文字太夫]]。常磐津は[[古浄瑠璃]]時代からの流れをくみ取り、初世家元を、大阪道頓堀で最古の人形操りの芝居小屋(出羽座)を興行した[[太夫]]「伊藤出羽掾」、二世家元をその弟子で[[世話物]]浄瑠璃元祖ともいわれる「文弥の泣き節」で好評を博した「二代目[[岡本文弥]]」、三世家元を京都[[南座]]の前身「都万太夫座」を創立し、[[近松門左衛門]]、初代[[坂田藤十郎 (初代)|初代坂田藤十郎]]とくみ元禄期の全盛を迎えた「都越後掾」、四世家元をその弟子で[[一中節]]を創始した「都太夫一中([[都一中]])」、五世家元をその弟子の「[[宮古路豊後掾]](都国太夫半中)」と数える。宮古路豊後掾の弟子宮古路加賀太夫は[[新内節]]、宮古路園八は[[宮園節]]、宮古路繁太夫は繁太夫節として独立。これら豊後系浄瑠璃は一時は[[義太夫節]]を凌ぐほど勢いがあり、なかでも[[宮古路豊後掾]]の一番の高弟である宮古路文字太夫が常磐津節を創設し六代家元となり、さらにそこから豊後三流('''常磐津節'''、[[富本節]]、[[清元節]])と枝分かれし、現在まで古格を守っている。[[掾]]号を[[受領]]した[[太夫]]に九世家元の四代目[[常磐津文字太夫]](初代常磐津豊後大掾)、十四世家元の六代目[[常磐津文字太夫]](二代目常磐津豊後大掾)がいる。三味線方は岸澤家の[[岸澤式佐]]が代々岸澤派の家元を継承する。
 
<br />
 
=== 【常磐津宗家家元】 ===
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!家元名
!前名
!生没年月日
!備考
|-
|初
|[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%87%BA%E7%BE%BD%E6%8E%BE-1055166 伊藤出羽掾]
|伊藤出羽掾
|初代岡本文弥
|(生没年不詳)
|出羽座の座元。[https://kotobank.jp/word/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8A-47080 からくり]や[https://kotobank.jp/word/%E7%B3%B8%E6%93%8D%E3%82%8A-31658#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 糸操り]で好評。
|出羽座の座元。カラクリや糸操りで好評。
|-
|二
|[[岡本文弥]]
|[https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%BC%A5-451379#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 二代目岡本文弥]
|二代目岡本文弥
|[[1633年]]-[[1694年]]
|二代目岡本文弥。「文弥の泣き節」を語る創始
|-
|三
|[https://kotobank.jp/word/%E9%83%BD%E4%B8%87%E5%A4%AA%E5%A4%AB-1113680#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus 都越後掾]
|都越後掾
|都越後目
|(生没年不詳)
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|-
|四
|[[都一中|都太夫一中]]
|須賀千朴
|[[1650年]]-[[1724年]]
88 ⟶ 85行目:
|宮古路文字太夫
|[[1709年]]-[[1781年]]
|[['''常磐津節]]'''の始祖。弟弟子に初代[[富本豊前太夫|富本豊前掾]]。
|-
|七
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|初代兼太夫
|[[1731年]]-[[1799年]]
|「[[積恋雪関扉]]」など、常磐津節の基礎を整備。
|-
|八
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|二代目小文字太夫
|[[1792年]]-[[1819年]]
|[[市村座]]で元服。[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]の。早世。
|-
|九
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|四代目小文字太夫
|[[1822年]]-[[1869年]]
|初代常磐津豊後大掾と確執が生じ離縁。
|-
|十一
151 ⟶ 148行目:
|-
|十七
|[[常磐津文字太夫 (9代目)|九代目常磐津文字太夫]]
|十一代目小文字太夫
|[[1947年]]-
|定本常磐津全集、常磐津演奏者名鑑の制作。
|}
 
=== 【岸澤家元】 ===
 
*
166 ⟶ 163行目:
!家元名
!前名
!生没年月日
!備考
|-
179 ⟶ 176行目:
|市治
|[[1753年]]-[[1823年]]
|常磐津における三味線岸澤派の基礎を整備。三代目古式部。初代右和佐。
|-
|三
203 ⟶ 200行目:
|初代巳佐吉
|[[1833年]]-[[1898年]]
|幕末・明治期の岸澤当主。常磐津家元との和解後は常磐津節の地位確立に貢献。五代目古式部。
|-
|七
227 ⟶ 224行目:
|五代目巳佐吉
|[[1909年]]-[[1962年]]
|七代目古式部の実子。大正・昭和期の岸澤当主
|-
|十一
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== 名人 ==
名人として名高い初代[[常磐津林中]]は、近世邦楽史不の名人とされ、[[清元節]]の家元五代目[[清元延寿太夫]]、[[長唄]]研精会を創始した四代目[[吉住小三郎]]([[吉住慈恭]])など他流の名人からも一目置かれ、明治39年の万朝報には「名人と称へられたるは、僅かに能楽の[[梅若実 (初世)|梅若六郎]]、[[宝生九郎知栄|宝生九郎]]と、常磐津の林中と三人なりし…」等と高い評価を受けている。また、一説では[[後藤象二郎]]にとても気に入られたという説がある。
 
== 人間国宝 ==
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*三代目[[常磐津文字兵衛]]【三味線方】(常磐津文字翁・[[日本芸術院]]会員)(昭和30年(1955年)認定)
*初代[[常磐津菊三郎]]【三味線方】(昭和41年(1966年)認定)
*四代目[[常磐津文字兵衛]]【三味線方】(常磐津英寿・[[日本芸術院]]会員・[[文化功労者]])(2019年現在の保持者)(平成4年(1992年)認定)
*初代[[常磐津一巴太夫]]【浄瑠璃方】(平成7年(1995年)認定)
 
== 近代の代表的人物 ==
[[明治]]から現在までに活躍した流派の代表的人物として、七代目[[常磐津小文字太夫]](初代常磐津林中)(1842‐1902)、六代目[[常磐津文字太夫]](二代目常磐津豊後大掾)(1851‐1930)、二代目[[常磐津文字兵衛]](四代目松寿斎)(1857-1924)、七代目[[岸澤式佐]](六代目岸澤古式部)(1859-1944)、三代目[[常磐津松尾太夫]](1875-1947)、三代目[[常磐津文字兵衛]](常磐津文字翁)(1888-1960)、九代目[[岸澤式佐]](常磐津勘右衛門)(1892-1979)、七代目[[常磐津文字太夫]](1897-1951)、初代常磐津菊三郎(1897-1976)、三代目常磐津三東勢太夫(1907-1983)、十代目岸澤式佐(1909-1962)、初代常磐津千東勢太夫(1916-1978)、八代目[[常磐津文字太夫]](1918-1991)、四代目[[常磐津松尾太夫]](1927-2017)、四代目[[常磐津文字兵衛]](初代常磐津英寿)(1927-)、初代[[常磐津一巴太夫]](1930-2014)、十一代目岸澤式佐(1943-2013)、[[常磐津文字太夫 (9代目)|九代目[[常磐津文字太夫]](1947-)らがいる。
 
== 曲目<ref>[https://sites.google.com/site/tokiwazuichiran/home 竹内有一『常磐津節の伝承―現行曲調査一覧―』webコンテンツ]</ref> ==
常磐津作品は、ジャンルで大別すると「[[時代物]](宗清など)」「[[世話人|世話物]](油屋など)」「御祝儀物(子宝など)」「[[松羽目物]](釣女など)」などとするのが一般的で、そのほか作品題材から「[[曽我物語|曽我物]](夜討曽我など)」、「道行物(おその道行など)」、曲単位では[[昔話]]に取材した「二人桃太郎」、[[読本|大長編読本]]に取材した「[[南総里見八犬伝|八犬伝]]」、[[仇討|日本三大仇討]]に取材した「[[忠臣蔵]]」、[[源頼光|頼光四天王]]が活躍する「戻橋」、家元[[常磐津文字太夫]]によってのみ語られる「老松」などがあるが、[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83-39988#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 仙台浄瑠璃]を採り入れた「蜘蛛の糸」、[[三河萬歳|三河万歳]]を採り入れた「乗合船」、[[かっぽれ]]を題材にした「初霞空住吉」、[[角兵衛獅子]]を題材にした「角兵衛」など他の芸能を題材にしたもの、さらには[[新歌舞伎十八番]]に数えられる「大森彦七」、[[新古演劇十種]]に数えられる「羽衣」まで、非常にバラエティに富んだ作品が多いことが特徴といえる。代表的な曲は「将門(忍夜恋曲者)」「関の扉([[積恋雪関扉]])」、全段常磐津出語りの「三世相錦繍文章」などがある。江戸時代までは毎月のように新作が作られていたが、明治以降は[[歌舞伎]]興行の形式変化に伴い古典作品ばかり扱われるようになった。現存する曲は300とも400とも言われているが、現在は、[[歌舞伎]]伴奏で用いられるもの、[[日本舞踊]]伴奏で用いられるもの([[日本舞踊の演目一覧|日本舞踊の演目]])、素浄瑠璃で演奏されるものを合わせて50~60曲前後が主に演奏されている。
 
=== 延享年間 ===
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*蘭平(月雪花名歌姿画)[[1865年]]
*月の船頭、こち、月の大漁、漁師(月雪花名歌姿画)[[1865年]]
*[[滑稽俄安宅新関|安宅新関(滑稽俄安宅新関)]][[1865年]]
*男女道成寺(東育奴娘道成寺)[[1867年]]
*質屋庫(質庫魂入替)[[1867年]]
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== 外部リンク ==
*[http://www.tokiwazu.jp/ 常磐津協会ホームページ]
*[http://www.kansai-tokiwazu.com/top/page005.html 一般社団法人関西常磐津協会ホームページ]
*[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k13111670 1900年録音の常盤津節の一節] - [[フランス国立図書館]]
 
{{日本の音楽}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ときわつふし}}
[[Category:歌舞伎用語]]