「三河島町」の版間の差分
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{{redirect|三河島|中華人民共和国の地名|三河島 (天津市)}}
{{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 =
| 廃止理由 = 編入合併
| 廃止詳細 = [[南千住町]]、[[日暮里町]]、'''三河島町'''、[[尾久町]] → '''[[東京市]]'''
| 現在の自治体 = [[荒川区]]
| よみがな = みかわしままち
| 自治体名 = 三河島町
| 区分 = 町
| 都道府県 = 東京府
| 郡 = [[北豊島郡]]
| 面積 = 2.65
| 境界未定 = なし
| 人口 = 79924
| 人口の時点 =
| 隣接自治体 = 北豊島郡尾久町、日暮里町、南千住町、[[南足立郡]][[千住町]]
| 所在地 = 北豊島郡三河島町大字三河島字村内931番地
|座標 = {{Coord|format=dms|type:city(79924)_region:JP-13|display=inline,title}}
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''三河島町'''(みかわしままち)とは、[[東京府]][[北豊島郡]]にかつて存在した町である。現在の[[荒川区]]の中部に位置していた。
== 地理 ==
現在の地名では、おおむね[[荒川 (荒川区)|荒川]]、[[町屋 (荒川区)|町屋]](六丁目、七丁目の一部を除く)にあたる。
== 歴史 ==
[[File:100 views edo 102.jpg|thumb|[[歌川広重]]『蓑輪金杉三河しま』]]
=== 由来 ===
「三河島」という地名の由来には、以下のような諸説がある。
* 三つの川([[中川]]・[[利根川|古利根川]]・[[荒川 (関東)|荒川]])に囲まれた中洲状の土地であったため<ref name="arakawa-unet_yurai"/><ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>
* 太田道灌の時代に、武家歌人の[[木戸孝範|木戸三河守孝範]]が当地に暮らしたため<ref>[[市木武雄]]『[[梅花無尽蔵]]注釈 1』(八木書店、1993年)p.421</ref>
* 徳川家康の関東入部の折、[[三河国]]から従ってきた人が知行したため<ref name="arakawa-unet_yurai"/>
* 徳川家康の関東入部の折、三河国から従ってきた農民を住まわせたため<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>
戦国時代の『[[小田原衆所領役帳|北条氏所領役帳]]』にはすでに「三河ヶ島」の地名が見られる<ref name="arakawa-unet_yurai"/>。したがって、徳川家康にまつわる由来説は[[江戸時代]]に生まれた俗説とみられる<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>。
=== 沿革 ===
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行に伴い、町屋村の全域と、以下の3村の各一部が合併して'''三河島村'''が発足(カッコ内は残部の編入先)。
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** 三ノ輪村([[東京市]][[下谷区]]、南千住町)
* [[1920年]](大正9年)[[2月11日]] - 三河島村が町制施行して'''三河島町'''となる。
* [[
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - 北豊島郡の全域が'''東京市'''に編入される。三河島町の区域は'''[[荒川区]]'''となり、「三河島町」は東京市荒川区の行政区画([[町丁|町]])となる。
=== 「三河島」の地名のその後 ===
第二次世界大戦後の1960年代、三河島町の地名は大部分が「[[荒川 (荒川区)|荒川]]」に、その他[[東尾久]]・[[東日暮里]]・[[西日暮里]]に編入されて消滅した。21世紀初頭の現在は、[[常磐線]][[三河島駅]]や[[京成電鉄]][[新三河島駅]]、[[金融機関]]の支店名{{efn|現在は[[三菱UFJ銀行]](旧・[[三和銀行]])などが同地に三河島支店を設置している。尚、[[あさひ銀行]]と[[大和銀行]](現・[[りそな銀行]])、[[第一勧業銀行]](現・[[みずほ銀行]])もかつては三河島支店を設置していたが、合併後に行われた移転・統廃合で現在は両行に「三河島」を冠した支店は存在しない。[[きらぼし銀行]](旧・[[東京都民銀行]])三河島支店も御徒町支店内に移転している。}}以外にその名をほとんどとどめていない。なお「荒川」への変更は、三河島が荒川区の行政の中心であったためとされる{{efn|1932年10月に[[東京市]]に合併して新設された区名は、原則として区役所所在地の旧町村名を付けることになっていたため。荒川区役所は三河島町に設置された。}}。
「三河島」という地名の消滅について、1962年(昭和37年)5月3日に発生した[[三河島事故]]のイメージを払拭する思惑があったとする説もあるが、地図研究家の[[今尾恵介]]は俗説として退けている。「三河島町」の大部分が[[荒川 (荒川区)|荒川]]に変更されたのは1961年10月31日(事故の半年前)である。わずかな面積が数年間「三河島町」として残ったが、道路からはみ出るなどしたわずかな面積であって、もともと他町名への分割編入が意図されたのであろうという。1964年7月1日に[[東尾久]]の分割編入が行われたあと、残った部分が1966年3月1日に[[東日暮里]]・[[西日暮里]]に編入され、行政地名としての「三河島」が消滅した<ref>今尾恵介『地名崩壊』(角川書店(角川新書)、2019年)pp.165-166。過去の著書で安易に俗説を引いてしまったとして反省を記している。</ref>。
== 人口 ==
* 1920年 21,623
* 1925年 59,252
* 1930年 80,217
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])
** [[常磐線]]
* [[京成電鉄]]
** [[京成本線|本線]]
* [[王子電気軌道]](現[[東京都電車]])
** 王子電気軌道線(三河島線を経て、現[[都電荒川線|荒川線]]
都電荒川線の[[荒川一中前停留場]]は、三河島町が存在した当時は存在しなかった。
==
=== 農業 ===
江戸時代より江戸の近郊農業地帯として発展しており<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/><ref name="arakawa_dentoyasai"/>、三河島町であった当時も[[農業]]が盛んであった。『大日本篤農家名鑑』によれば、三河島村の[[農家|篤農家]]は松本雄太郎がいた<ref>[{{NDLDC|782783/143}} 『大日本篤農家名鑑』]280頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月28日閲覧。</ref>。
====
三河島では'''[[三河島菜]]'''という青菜が特産で、[[漬け菜]]の代表格とされ、江戸の食文化を支えた<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/><ref name="arakawa_dentoyasai"/>([[江戸野菜]]のひとつ<ref name="arakawa_dentoyasai"/>)。小松川の[[小松菜]]と比肩する人気を誇ったという。
しかし、白菜の普及によって市場での扱いが減少したことや<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/><ref name="arakawa_dentoyasai"/>、宅地化の進行にともなう農地減少の影響を受け<ref name="arakawa_dentoyasai"/>、三河島地域での生産は行われなくなった<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>。
ただし、[[仙台藩]]の足軽が[[参勤交代]]の際に江戸から三河島菜を持ち帰ったものが[[仙台市|仙台]]地方において生産され、「芭蕉菜」の名で呼ばれている<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>(仙台伝統野菜のひとつ「仙台芭蕉菜」<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>)。2010年には、芭蕉菜のルーツが三河島菜であることが判明<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>、古文書によっても三河島在来種である「青茎三河島菜」であることが跡付けられた<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>。このため、2010年代以後に「青茎三河島菜」として東京西部の農家で栽培がおこなわれるようになり<ref name="arakawa_dentoyasai"/>、東京への「里帰り復活」が行われることとなった<ref name="ja_tokyo-mikawashimana"/>
=== 地主 ===
三河島町の[[地主]]は「松本釜次郎<ref>[{{NDLDC|1072938/878}} 『人事興信録 第11版 下』]マ163頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2021年2月14日閲覧。</ref>、伊藤岩吉<ref name="shinshi35">[{{NDLDC|1145751/54}} 『日本紳士録 第35版』]東京イ、ヰの部51 - 57頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月28日閲覧。</ref>、伊藤梅吉<ref name="shinshi35"/>、伊藤鎌吉<ref name="shinshi35"/>、伊藤佐太郎<ref name="shinshi35"/>、伊藤安兵衛<ref name="shinshi35"/>、伊藤亦次郎<ref name="shinshi35"/>、伊藤美佐子<ref>[{{NDLDC|3430445/197}} 『人事興信録 第12版 上』]イ89頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月17日閲覧。</ref>」などがいた。
=== 商工業 ===
* [[秋元喜市]]([[肥料]]商)<ref>[{{NDLDC|1704004/1158}} 『人事興信録 第7版』]あ109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月30日閲覧。</ref>
* [[秋元源彌 (1886年生の実業家)|秋元源彌]](近江屋、[[皮革]]商、秋元皮革社長) - 営業所が三河島<ref>[{{NDLDC|1683373/71}} 『大衆人事録 第14版 東京篇』]24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月30日閲覧。</ref>。
; 工場
* 大野製革工場 - 開業年月は[[1895年]]1月<ref name="kozyo">[{{NDLDC|1877045/395}} 『全国工場通覧』]五、化学工業 製革業 関東685頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月20日閲覧。</ref>。生産品目は皮鞣<ref name="kozyo"/>。代表者は大野富則<ref name="kozyo"/>。
* 本田セーム革工場 - 開業年月は[[1923年]]5月<ref name="kozyo"/>。生産品目は[[セーム革]]山羊その他<ref name="kozyo"/>。代表者は本田重蔵<ref name="kozyo"/>。
== 地域 ==
=== 施設 ===
* [[町屋斎場|町屋火葬場]] - 面積はおよそ2200[[坪]]<ref>[{{NDLDC|764115/42}} 『東京市区改正全書』]67頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年10月16日閲覧。</ref>。
* [[三河島水再生センター|三河島汚水処分場]] - [[1922年]](大正11年)に稼働を始めた日本初の近代的汚水処理場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/b4/guide/sise-list/03-02/index.html |title=旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設 |publisher=東京都 |date=2022年 |accessdate=2023-01-15}}</ref>。
== 名所旧跡 ==
=== 三河島八景 ===
三河島周辺には、[[瀟湘八景]]になぞらえた「三河島[[八景]]」と呼ばれる景勝があった<ref name="arakawa-unet_yurai"/><ref name="yamaguchi-1988"/>。八景とされるのは以下である<ref name="yamaguchi-1988"/>。
* 「芝原の秋月」
* 「一本橋の夜雨」
* 「荒木田の落雁」 - 「荒木田原」は現在の町屋東部にあった原野の名。
* 「庚申の暮雪」 - 「庚申」は[[庚申塔]]の意で、三河島村と町屋村との境界に植えられた「町屋の一本松」の傍らにある(松は代替わりしたが、庚申塔とともに町屋一丁目に現存)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/unet/issue/saihakken/0405/machiya04.html|title=4. 町屋の一本松跡|work=荒川ゆうネットアーカイブ|accessdate=2021-5-23}}</ref>
* 「菅苗の夕照」 - 「菅苗」は現在の荒川八丁目付近。
* 「千住の晩鐘」
* 「白小屋の帰帆」
* 「高畠の晴嵐」 - 「高畠(高畑)」は現在の荒川七丁目付近。
これらの八景は「まえにあった」とされるものである<ref name="yamaguchi-1988"/>。1986年(昭和61年)に地元郷土史団体である荒川史談会が設立20周年事業として[[西田昌功]]に委嘱し、三河島八景の[[浮世絵]]を制作している<ref name="yamaguchi-1988"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|
<ref name="arakawa-unet_yurai">{{Cite web|和書|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/unet/sightseeing/history/history/yurai.html |title=荒川の由来 |work=荒川ゆうネットアーカイブ |publisher=荒川区 |accessdate=2020-7-10}}</ref>
<ref name="ja_tokyo-mikawashimana">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-ja.or.jp/farm/edo/14.php |title=青茎三河島菜 |work=東京江戸野菜 |publisher=JA東京中央会 |accessdate=2021-5-22}}</ref>
<ref name="arakawa_dentoyasai">{{Cite web|和書|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/kankoleisure/tokusanhin/dentoyasai.html |title=復活!江戸伝統野菜 |publisher=荒川区 |accessdate=2021-5-22}}</ref>
<ref name="yamaguchi-1988">{{cite journal |和書|url=https://www.tokyo-ja.or.jp/farm/edo/14.php |title=現代の彫摺技術養成について |author=山口桂三郎 |journal=浮世絵芸術 |issue=92 |year=1998 |publisher=国際浮世絵学会|page=28-29|accessdate=2021-5-22}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 深津雅直編『東京市区改正全書』法弘社、1889年。
* 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
* 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
* [[交詢社]]編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
* 商工省大臣官房統計課編『全国工場通覧』[[日刊工業新聞社]]、1931年。
* 人事興信所編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937 - 1939年。
* 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
* 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
== 関連書籍 ==
* 入本英太郎編『三河島町郷土史』(三河島町郷土史刊行会、1932年)
** {{国立国会図書館のデジタル化資料|3436438|三河島町郷土史}}(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)
== 関連項目 ==
* [[東京都の廃止市町村一覧]]
* [[北豊島郡]]
* [[三河島駅]]
* [[三河島事故]]
== 外部リンク ==
* [https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/13B0100005.html 東京府北豊島郡三河島村 (13B0100005)] - 歴史的行政区域データセットβ版
{{東京府の自治体}}
{{Japan-area-stub}}
{{DEFAULTSORT:みかわしままち}}
[[Category:東京府の市町村 (廃止)]]
[[Category:南豊島郡]]
[[Category:荒川区域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1932年廃止の日本の市町村]]
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